「ここが私たちの故郷」 違法占拠して27年 スクウォッターの暮らし(1) (2001年10月10日)
「スクウォッター」は日本語に訳すと「違法占拠民」。仕事を求め地方から首都圏を訪れ、公私問わず他人の土地に入り込み、バラック小屋などを建てて生活している人たちのことだ。スクウォッターは増加の一途をたどり、首都圏人口の約半数の450万人に上る。政府もことあるごとにこの問題を挙げ、フィリピンの抱える病巣の一つになっている。2回にわたりマカティ市の、あるスクウォッターの日常生活をレポートする。
マカティ市役所のそば、バランガイ・バレンスエラにバラック小屋が立てられたのは戒厳令下の1974年。当時は地元実業家が分譲した一軒の民家がひっそりと建っているだけだった。
パナイ島イロイロ市から出てきた男性が、近くの民間企業に運転手の仕事を見つけ、隣の私有地に勝手に家を建たのが始まりだった。それから27年、20メートル四方の一角は、76歳の女性から1歳の乳飲み子まで、約30世帯150人がひしめき合う違法居住区に「発展」した=トップページ中央の写真。
居住区には、れっきとした自治組織が存在する。全体を統括するプレジデントのほかバイスプレジデントやセクレタリー、財務係や監査係もいる。一世帯当たり月50ペソの運営費を徴収。月一度の運営委員会はセクレタリーのゼナイダ・スエロさん(40)=トップページ右上の写真=が経営するサリサリストア(雑貨屋)の店先で、テーブルを囲みビール片手に行われる。
スエロさんは先に住み始めた伯父を頼り、父親と共にイロイロ市からやって来た。父は小作農で、稼ぎは現物支給のみ。「何とか現金収入を」と首都圏でトライシクル運転手を始めた。
同じイロイロ市出身の夫とは幼なじみで転居後間もなく結婚、現在は19歳の長男を筆頭に16、15、7歳の子供がいる。夫はマンダルーヨン市の民間企業の運転手。バロンタガログ姿の夫を見送り、店を開けるところから一日が始まる。
一家の収入は夫の月給1万ペソにサリサリストアの1万ペソを合わせた計2万ペソ前後。長男のハイスクール卒業時の写真を手に「市内のカレッジでコンピューター技術を学んでいましてね。将来が楽しみです」と目を細めた。
マカティでの生活は21年目を迎えた。「実家に帰っていたのは最初の3年ぐらい。いまでは知り合いもいないし家もない。子供は全員マカティ生まれだし、故郷のヒリガイノン語を話せる人も少なくなってきた。もう、ここが私たちの故郷になったのかもしれませんね。ただ・・」。
スエロさんは口を濁すと、運営委員会の議事録など重要書類の綴じられたファイルを開けた。そこには今年7月3日、地元裁判所から送られてきた「立ち退き勧告通知」があった。期限は10月15日。デッドラインが近づくにつれ、周りがにわかにあわただしくなってきた。(つづく)
「ほかの人と変わらない」 再定住地にはリスク スクウォッターの暮らし(2) (2001年10月17日)
150人が生活するマカティ市バレンスエラの違法占拠居住区。所有者の訴えを受け地元裁判所が送付した「立ち退き勧告」のデッドラインを迎えた10月15日夜、通常の月例委員会とは別に緊急対策会議が開かれた。
居住区を統括するプレジデント以下、全理事と数人の住民がセクレタリーのゼナイダ・スエロさん(40)の経営するサリサリストア(雑貨屋)前に集合し、一時間にわたり今後の対応を話し合った。
「ここが私たちの故郷」――。スエロさんがそう話したように、住民たちに立ち退く意思はない。憲法にも「(再定住地の確保など)公正かつ人道的な配慮がない限り立ち退きを強いられない」とスクウォッターの居住権擁護が定められている。「もし関係者が来て立ち退きを迫ったら、要望を聞いた上でこちらの主張も訴えよう」と結論を出し、会議は終了した。
翌十六日、スエロさんは「不審者」が付近にいないか周囲を監視した。他の住民は極力外出を避け、万一の事態に備え部屋の中で待機した。しかし、何事もなく終わり、翌17日もそれらしい来訪者はなかった。
スエロさんは「裁判所からの通知は今回が初めてで、とりあえず『警告』の意味だったのかもしれない。まだ楽観視できないが、いつでも話し合う準備はできている」と胸の内を明かした。
違法占拠住民といえば、日本の大都市にも「ホームレス」と呼ばれる浮浪者が段ボールなどでねぐらを作り生活している。しかし、スクウォッターがホームレスと違うのは、彼らは占拠した場所にれっきとした住居を構え、多くが定職を持っていることだ。
そもそも、仕事が目的で地方から出てきたのだから当然で、住居費ゼロの暮らしぶりは決して悪くない。しかし、土地家屋を取得する経済力があるにもかかわらず、立ち退き料目当てに不法占拠を続ける「プロ」も存在するという。
トライシクル運転手のエルネスト・フェデリコさん(50)の場合、収入は十分あるが「変化」を嫌って違法占拠を続けているケースだ。妻と長女が海外就労者(OFW)として台湾で働いていることもあり、エアコンが完備された八畳ほどの部屋に五歳の孫と二人で住んでいる。収入は仕送りを含め月30,000ペソで首都圏の最低賃金をはるかに上回る。先日、60,000ペソで新品のスクーターも購入した。
フェデリコさんは「なぜ普通の家に住まないか? じゃあ逆に聞くが、何で高い金を払って家を借りなきゃいけないんだ。ここでの生活に何も不自由を感じていない」と話す。仮に再定住地が用意されても、「縄張り」などのしがらみがあり簡単にトライシクル運転手はできず、リスクを負うだけだと主張する。
「違法なのは十分承知している。ただ、私たちの生活は住居が違法という以外、ほかの人たちと何ら変わらない。ここには生活の歴史も愛着もあるんです」。スエロさんの訴えは、スクウォッター問題の根深さを改めて感じさせる。(終わり)
フィリピン人に見る「シェア」の精神 (2001年6月10日)
事業を拡大して新たな土地に新規参入する際には、地域特性を理解し、郷に入っては郷に従うのがビジネスの常識だ。ましてや諸外国との商取引となれば、海外進出、国内での取引にかかわらず相手国の習慣、宗教、生活環境などを一通り理解し、人間性を尊重したビジネスを行うことが、事業を成功に導くためには欠かせない要素と言える。
私が長くかかわってきたフィリピンは、アジアで数少ないキリスト教信仰国である。なかでも大半を占めるカトリック教が、生活はもとよりビジネスにも深く根付いている。
以前友人を訪ね、マニラから北へ2時間ほど行ったパンパンガ州マサントルにある私邸に一晩泊めてもらったとき、そこの子供たちから教えられたことがある。カトリック・フィリピーノに宿る、「シェア」の精神だ。
世話になる挨拶代わりに、近所でショーパオ(日本で言う肉まん)を5つ買っていった。しかし、その家には親戚を含め子供が7人。子供に与えるには2つ足りないことが分かった。ただ、都合のよいことにその場には4人しかいない。日本ならためらわず4人が1つずつ肉まんを食べてしまうだろう。しかし7、8歳位の一番年上の子は、あえてライバルが増えるにもかかわらずその場にいない3人を呼び寄せた。
次に肉まんをすべて半分に割り、半分になった肉まんをみんなが食べ始めたのだ。半分の肉まんを2つ、つまり1個分食べた子もいれば、お腹があまり空いていない子は2分の1個で充分。肉まんはきれいになくなり、みんな満足そうだった。
肉まんを半分にしなければ、食べられない子や食べ切れずに残す子がいたかも知れない。いずれにせよ、せっかくの肉まんがけんかの種になっていたことだろう。私が見たものは、楽しみを皆で分かち合うことを常とするフィリピンならではの光景だった。
ビジネスにおいても、仕事上のノウハウを包み隠すことがないという点に彼らの「シェア」を垣間見ることができる。アジアの別の国では、「盗作」防止のためプロジェクトの完成近くまで全体像が知らされないまま進行することもある。フィリピン人には良くも悪くもそのような器の狭さはない。ノウハウを分け合い、ともに繁栄することが彼らの喜びである。「のれん分け」が多いのもフィリピンならではの特徴だ。駆け引きをしたり、変に秘密裏にことを運ぶことは、彼らの人間性を踏みにじることにもなり兼ねない。
文化や言葉、商慣行の違いをビジネスの障害と考えることはたやすい。しかしもう一歩相手の懐に入り、それを新たな価値観を知る楽しみとしてとらえるゆとりを持ちたいものだ。IT革命が叫ばれる現代だが、アナログな人間関係がビジネスの勝負を分けることは不変なのだから。
フィリピンの本当の姿を伝える 大阪外国語大学講師 斉藤ネリーサさん (2001年3月18日)
「東南アジアの劣等生」という辛口のレッテルは過去のものとなったのか。97年の経済危機以降、後遺症にあえぐ他のアジア諸国を尻目にフィリピン経済は堅調に推移している。2000年10月に発覚したエストラダ前大統領の汚職疑惑に絡む弾劾裁判では、今年1月の政変でピープルズ・パワーがその幕を引きアロヨ新政権を誕生させた。「熱しやすく冷めやすい国。それが良いか悪いかは、見方次第でしょうね」と大阪外国語大学講師で在日歴20年のフィリピン人女性、斉藤ネリーサさんは語る。
今回の政権交代には、フィリピンを取り巻くさまざまな社会でこれまで以上の関心が集まっている。86年にマルコス元大統領を政権の座から引きずり降ろしたピープルズ・パワーにちなみ「ピープルズ・パワー2」と称された政変で、いままであまり知られていなかったフィリピンが明らかになってきたからだ。
○ピラミッド社会の変容
今回のピープルズ・パワー2の主役が、エストラダ前大統領を退陣に追い込んだ民衆であることは間違いない。しかしそれに加え、その民衆を大きく動かした政変のもう一つの立役者がいる。それは携帯電話だ。
弾劾裁判が真実の追及とは別の方向に進むことを恐れたある市民運動家が、携帯電話でメールを送った。「エラップ(エストラダ前大統領の愛称)に抗議する者は車のクラクションを鳴らし続けろ、転送」。50人に送られたメールは次々と転送され数分後、抗議デモが行われたエドサ聖堂に続く道路で一斉にクラクションが鳴り響いた。抗議集会に参加した多くの人も、携帯電話のメールで参加を促されたものだった。
サラリーマンの大卒初任給が20,000円と言われるフィリピンで、やはり1台2、3万円する携帯電話を多くの人が所持している。都心で学生がメール交換をする姿は、日本より多いようにも見える。ピラミッドを描き「一部の富裕層が経済を動かし、その下に圧倒的多数の貧困層が存在する」などと語られることが多い国だが、この構図を説明できないさまざまな現象が最近、出始めているというのだ。
「『ニューリッチ』と呼ばれるグループが台頭してきたことで中流家庭が増え、ピラミッド社会に変化が見え始めています。ただ、それをフィリピン経済の発展ととらえるのは少し軽率でしょうが」
ネリーサさんはフィリピン社会に訪れた変化をこう説明する。全人口の5%を占める400万人もの出稼ぎ労働者がフィリピン経済を下支えしているが、彼らが海外で得た資金を元手に事業を始め、その事業に最近、芽が出て中流・富裕層として顕在化してきたのだと言う。
彼らは自ら組織化し、FC(フランチャイズチェーン)やVC(ボランタリーチェーン)などチェーン形態の事業を行っている。階級社会で国が運営され、一攫千金など無縁と言われてきたフィリピンで、この動きは経済の活性化を促進した。そんな彼らの子弟が、携帯電話を持つまでになった新たな層と言える。
大卒初任給と携帯電話とのバランスについては、日本とは異なるサラリーマンのライフスタイルをつかむことで納得できる。フィリピンでは多くのサラリーマンが副業を持っている。物価が安いとは言え、日用品で日本の三分の一、家電や車などは日本とほぼ同額のフィリピンでは、サラリーマンが会社から得る収入だけで生活していくことは困難だ。彼らは生活できるだけの収入をサイドビジネスでまかなっている。それらの収入を合計したものが一体いくらになるのかは非常に分かりにくい。つまり、大卒初任給をベースに一家の所得を図ることが困難な国なのである。ネリーサさんはさらにこうつけ加える。
「サクセス・プラス・エレクトロニクス・ガジェット(Success Plus electronics
gadget)と言って、フィリピン人は見栄っ張りなところがありますからね。トタンでできたタタミ二畳くらいの家でも、入ってみると大きなテレビやコンポが置いてある。家電や貴金属はフィリピン人の成功の証なのです」
日比両国で国民一人当たりのGNP(国民総生産)を比較すると、確かに40倍近くのひらきがある。しかし、発展途上国では数字に表れる経済と実体経済とに大きなギャップが見られることが多い。全人口の15%が首都マニラに集中する一方、7,000もの島で国が形成されているフィリピンには治外法権で暮らす無数の独立民族もいる。彼らをひとくくりにして表されるデータで真実はつかめない。携帯電話の普及でいくつもの事実が見えてきた。
○それでも国民性は今も昔も変わらない
治安の悪さやスモーキーマウンテン、じゃぱゆきなど薄暗いイメージが先行してきたのが、これまでのフィリピンだ。確かに現代の日本社会でフィリピンに接する機会は、テレビで報道される爆弾テロやマニラで深刻化するゴミの回収問題、そしてフィリピンパブと言われるフィリピン人ホステスが客をもてなすクラブなどに限られてしまう。
「私も来日当時、ダンサーに間違えられました。日本でホステスとして働くフィリピン人女性が悪いとは思いません。むしろ、家族のために働く彼女たちをすばらしいと思います。けれど、そのようなイメージだけが先行することはよくありません。まず、そのような現実をフィリピン人一人ひとりが認識することです」
しかし、フィリピンをほかのアジア諸国と比較した場合、例えば衣料品では中国やタイ、ベトナム、家電やハイテク分野では韓国や台湾、シンガポール製品を目にするが、フィリピンについてはバナナやマンゴなどフルーツぐらいしか見掛けない。国際関連のイベントや博覧会にもフィリピンに関するブースは心なしか少ないように感じる。限られた情報のなかでフィリピンを正確に理解せよと言うほうが無理だろう。
「日本にもIT関連を中心に優秀なフィリピン人ビジネスマンは大勢います。しかし、全般的にフィリピン人はビジネスがあまりうまくないのではないかとも思います。フィリピン語で『ニガス・プグン』と言うのですが、窯の中でパッと火が燃えて、すぐに消えてしまう。情熱的な反面、細く長く長期的な視野で物事を見ることが苦手な国民性を言い表した言葉です」
フィリピン人は「ビジネス」という言葉がとても好きだ。サラリーマンですらいくつもの副業を持つことが当たり前になっている。ただ、その中身を見るとお金の貸し借りの利ザヤで儲けたり、タクシーや乗合バス、フィリピンの至る所で見られるサリサリストア(雑貨屋)の経営など付加価値を生みにくいものが多い。現金収入を利益と考える向きすらある彼らは、「蓄える」という感覚に乏しい。しかしそれは、その場面を最大限に楽しみ、楽しみをあとにとっておくことを、もったいないと考える彼らならではの生き方でもある。儲かればさらに儲けようと投資に回し、失敗してもまた一から出直すのがフィリピン人だ。
また、本音と建て前、公私を分けることを善しとしない。仕事付き合いの延長で得意先を家に招待したり、家族ぐるみの付き合いを人間関係のはかりにする。それが転じて、支払いの催促が甘くなり経営に支障を来すまでになる。今も昔も変わらないフィリピンの姿だという。
「自国のPRについても同様、あまりうまくないでしょうね。ボランティア団体やNGOなどの一見フィリピンに詳しそうな方でも、スモーキーマウンテンしか知らない人がいるのには驚かされます」
善意の気持ちを無償で形にするのがボランティアの基本だが、本来、そのようなきれい事はほとんどあり得ない。それはボランティアをしている人たちもよく分かっていて、「結局は自己満足」だとある団体の人が話してくれた。例えば、ボランティアでいくらかの現金を出した場合、その時点で相手を支配したいという欲に駆られるのだという。それが「かわいそうでなければならない相手」を作り出し、ある例では、子供の性的虐待へとつながったそうだ。
以前、この企画で取材したインドネシア人の母を持つ竹内ロビーさんも、感謝の仕方を干渉する日本人や、東南アジアイコール貧困という日本人の単純な発想に憤りを訴えていた。ボランティアの原則は「足長おじさん」に徹し、決して姿を明かさないことだと誰かが言っていたが、ボランティア活動に携わる人たちはもう一度、自身の目的を問い直してほしい。
○誤解のあとには真実が見えてくる
ネリーサさんは大学で教鞭をとるほか、「関西フィリピン人コミュニティ連絡会」(PCEC)の会長も務め、十数万人と言われる在日フィリピン人が各地域で結成するフィリピン人コミュニティのまとめ役もしている。PCECは、関西二府四県のほか広島、石川、岐阜、愛知、福岡の各県のフィリピン人親睦・互助団体で構成されている。
81年の来日以来、日比友好に数々の足跡を残し、関西地区のフィリピン関連のイベントには常にネリーサさんの姿がある。今回の取材も小学校の四、五、六年生を対象とした「国際理解」のホームルームでフィリピンについての現状を子供たちに話してきたあとだった。
「日本人のフィリピンへのかかわり方も、この20年で大きく変化したように思います。以前は、フィリピン語を教えるということで集まった人に動機を聞いてみると、実はホステスの女の子と話しがしたいから、ということも多かった。今では近くに住むフィリピン人を通して、フィリピンをより深く理解したいという人が目立つようになりました」
『ザ・ガイジン』というミュージカルが関西地区で話題になっている。日本で外国人が日常経験する差別や偏見、日比国際結婚で生まれた子供たちが学校などで味わういじめなどを描いた自作自演のミュージカルだ。フィリピン・ノーマル国立大学で演劇を学び、卒業後も数年間、講師として演劇を指導したことのあるネリーサさんがこの作品を監督し、上演活動の中心となっている。
「在日外国人の置かれた状況を日本人に知ってもらうには、シンポジウムなどの堅苦しい形式より、ミュージカルのほうが分かりやすいと思いました。重い問題も軽く見せるのがフィリピン人の美学です。より自然にフィリピンに興味が出る、そんな環境づくりに今後も努力していきます」
偏った報道で歪んだフィリピンが伝えられてきたことは間違いない。しかし、それもまたフィリピンの一部であることを忘れてはならない。マイナスをプラスに転換することは容易でないが、地道な活動から真実が理解されたとき、国際交流の一つのすばらしさが見える。
外国人労働者受け入れの現状と課題 (2000年11月5日)
グローバリゼーションの進展という言葉を、私たちはIT革命で実感した。社会における国際化の波は末端の消費者にまで押し寄せ、電子商取引では名実ともに国境がなくなった。一方で人間の移動となると、その流れに反比例するかのような、政府の外国人労働者政策と日本企業の姿勢。これらの現状を踏まえ、今後わが国に求められる外国人労働者の受け入れ策を探った。
○矛盾だらけの外国人労働者政策
「日本政府の外国人労働者政策には矛盾が多い。また日本企業の外国人の雇用に対しては、考え方が古くやり方も下手だと言わざるを得ません」
本誌の電話インタビューに対し、あるアジアの在日領事は「あくまでも個人的な見解」と前置きしたうえでこう語った。
昨夏わが国では、世界に有能なIT技術者を輩出しているインド、中国と続けざまにIT技術者の受け入れを促進することで合意した。米シリコンバレーでは、1995年から98年に設立された技術系ベンチャー企業の最高経営責任者(CEO)の29%が両国の出身で、日本のこの政策は米国を追随する形となるが一応、評価できる。
しかし、わが国の経済を下支えしているのはIT産業ではなく依然、中小製造業である。現在、日本の外国人労働者の大半は、これら中小製造業の3K(キツイ、キタナイ、キケン)職場で働いている。さらに彼らの多くは、ビザの期限が過ぎても滞在し続けている不法就労者だ。今、政策としてわが国が優先すべきは、特殊技能を有するIT技術者などの受け入れではなく、むしろ、いわゆる単純労働に従事する彼らとどう向き合っていくかではないのか。
外国人労働者の受け入れ政策には賛否がある。わが国では人口の激減に伴う労働力人口の減少、国内総生産(GDP)の減少による国際競争力の衰退が懸念されており、ITをはじめとする特殊技能者を積極的に呼び寄せようというのが大筋の流れだ。
一方で、外国人労働者の受け入れが経済の活性化を生み出す反面、社会コストの負担が国民に降りかかるため慎重に対応すべきという見方もある。しかし、この見解は消極的だ。現状維持をよしとするのであれば、今後わが国の経済の飛躍は期待できなくなる。前出の在日領事も「バブル崩壊後のデフレ環境下で物価が下がっているが、労働者の賃金は物価に伴っておらず経済のバランスが崩壊している。単純労働者の受け入れを、賃金の上昇の抑制策として打ち出すぐらいでなければ、抜本的な経済回復は図れない」と指摘する。
○入管法改正の成果
外国人の出入国や就労を規定する「出入国管理及び難民認定法」(入管法)では、産業上の特殊な技能を持つ者や熟練労働者、スポーツ選手や報道特派員など一部の特殊技能を持つ労働者にしか長期の就労を許可していない。企業の側は、違法だと分かっていながら不法滞在者を安価な労働力として雇用し続けている。不法滞在者の不安定な労働環境に改善の兆しはない。
これに追い討ちをかけるように昨年2月、入管法が改正され、強制送還された超過滞在者の再入国禁止期間が、帰国後1年間から5年間へと大幅に延長された。一昨年秋ごろから各地の入国管理局前には連日、罰則が強化される前に帰国しようとする外国人の長蛇の列ができ始めた。
この改正で数万人の不法滞在者が帰国したと言われ、50万人に上る不法滞在の浄化に成果を上げた。しかし、この入管法改正のそもそもの趣旨は蛇頭などの国際犯罪組織の壊滅であった。ところが大半が密入国や偽造パスポートを使い入国した者で構成されるこの組織が、改正でダメージを受けることはほとんどないと言われている。
罰則の強化を恐れ帰国した不法滞在者の多くはまさしく中小製造業や建設現場を支えていた人たちだ。法改正により彼らの一部を帰国させたことが、どれだけの成果と言えるかには、大いに疑問が残る。
これより10年さかのぼった90年6月の入管法改正では、海外に移民した日本人の子孫である日系人の就労制限を撤廃した。これを契機として日系ブラジル人を始めとする多くの日系人が日本に流入し中小製造業などの戦力となった。しかし、多くの日系人を生み出したブラジルに関しては、すでに労働力と言える日系人は残っていないと見られている。
もともと65万人程度の日系ブラジル人の労働力人口のうち、この10年で22万人が日本へ流出した。残る43万人のうち35万人は本国を離れる必要のない人で、日系人の受け入れ政策は成功のうちにピークを越したと言ってよい。ここからも、次は外国人労働者へという考えが浮かび上がってくる。
○それぞれに自助努力が必要
昨夏の外国人受け入れ姿勢の軟化では、IT関連の技術者が対象となった。昨年、世界中を駆け巡ったITが特殊技能の枠に加えられることは、しごく当たり前のことだ。今後の焦点は、この枠がどこまで拡大するかである。
「わが国もITをはじめファッションデザイナーや医療・介護など日本にない優秀な技能をたくさん有している。領事として私たちが取り組んでいかなければならないことは、これらを日本にアピールしていくこと。海外から手を借りたいと思わせることなのです」(先の在日領事)。
日本政府の対応の遅れを、指をくわえて見ているだけでなく、積極的に自国を宣伝していく構えだ。
企業の側も、外国人労働者の受け入れ政策の行方に目を凝らし、自社の戦力としてどう位置付けるかを検討する時期に来ている。地方自治体の海外姉妹都市に事業提携を呼びかけたり、海外のミッションに参加するなど、国の枠にとらわれない積極的な対応が必要だ。外国人労働者に関する問題には、都道府県労働局や労働基準監督署、また各入国管理局も外国人在留総合インフォメーションセンターを設置し随時相談に応じてくれる。このような場所へ情報収集に出かけることも有意義だ。
自発的な対策が求められるのは事業者だけではない。雇用者の側にも、自分の身は自分で守るという覚悟がなければ、受け入れ政策に水をさすようなことになり兼ねない。労働環境を企業に依存する時代でなくなったことは、日本人とて変わらない。機械で腕を切断されるという不慮の事故を境に経営者の態度が変わり、追われるように会社を辞めたという話も聞くが、労災法第三条第一項には不法就労者であっても労災保険に適用されることが明言されている。
労働災害時に労災保険に加入していなくても、適用は原則、認められるという実態もある。さらに一連のやり取りには、一般的に入国管理局は関知しない。このようなことが、どれだけ労使間での常識となっているだろうか。
これら各々の自助努力のうえに、政府の前向きな対応が求められる。日本の労働者までもが欧米へ流出する傾向にあるなか、魅力ある労働市場の育成に課題は多い。今後、わが国が国際競争力を維持し国際社会の表舞台出て行くためには、国境や国籍といった枠を今以上に厳格にとらえつつ、実態に即した法制度の改正を早急に行う必要がある。
祭りを追いかけ「テキ屋」生活 (2001年6月7日)
年間の平均気温が27度に上るフィリピンでは、日本でいう夏祭りが一年中、各地で開催されている。フィリピン人は、祭りのことを「フィエスタ」と呼ぶ。バーベキューなどの屋台が軒を連ね、子どもたちが群がる光景は日本と変わらない。
屋台を開いているのは、やはり日本と同じ「テキ屋」。彼らは、祭りから祭りへと全国各地を渡り歩く。
フィリピン人にはおなじみの「カラーゲーム」の屋台を出していたベリリョー・ディーソンさん(28)は、2週間前にルソン島中部のパンパンガ州マサントル町にやって来た。今日7日から始まる「フィエスタ本番」に向けての場所取りが目的。数日前から小遣い稼ぎのため店を開いていた。
6色に塗ってあるサイコロを振り、出る色を予想して10ペソ程度のお金を賭け、予想した色が出ればお金がもらえるのがカラーゲーム。この日の収益は500ペソ程度だが、「フィエスタ本番」では3,000ペソは稼げるという。大卒初任給が6,000ペソ程度のフィリピンで、これは結構な収入といえる。
彼らは、家を持たず自らの屋台で寝泊まりし、祭りが終われば次の目的地へと向かう。「気ままな暮らしがいい」というベリリョーさんは、パンパンガ州やブラカン州を中心に、一年で十数カ所の祭りに店を出すという。
こんな生活に、日本の「寅さん」を思い出した。「日本で一番人気のある映画は、テキ屋が主役だ」と話すと、「彼はナイスガイか」とベリリョーさん。「もちろん、キミと同じナイスガイだ」と答えると、「そうだろう」と満足そうだった。
全国一のパロル生産地 サンフェルナンド市 (2001年10月20日)
2カ月余りに迫ったクリスマスを前に、大通りや庭先などを七色の電光で彩る「パロル」で全国一の生産量を誇るパンパンガ州サンフェルナンド市で職人たちは、一年で最も忙しい「書き入れ時」を迎えている。首都圏から北に車で約2時間。同市ドローレス通りには30ものパロル販売店が軒を連ね、日没とともに色とりどりのネオンが行き交う人々の目を楽しませる。
ドローレス通りで、ひときわ大きな工場と店を構える「ルー・ランタン」を訪ねた。店内には花や果物、サンタクロースなどがかたどられた300個余りのパロルが壁いっぱいに陳列され、客が子供とともに品定めをしていた。
店の奥の作業場では、30人もの職人が骨組み作りや電球の取り付け、外装の仕上げに追われていた。一つひとつが手作りだ。
製作上、重要なのがデザインを含めたフレーム作り。技術的な問題もさることながら、どのような形のものをどれくらい生産するかに最も神経を使うという。同店が生産するパロルの6割は、顧客から注文を受け製作するオーダーメイドだが、残り4割の規格品をどうデザインするかがその年の売上を左右するという。
直径一センチほどの針金状の棒を溶接していた職人のジョセフ・ビーライさん(40)は「どんな形がはやるのか時代を先取りする目が必要。今年はマラカニアン宮殿前の暴動など暗い出来事が多かったので、それを打ち消すような明るいデザインが好まれている」と話す。今年の流行は「天使」だそうだ。
ビーライさんによれば、街頭にパロルが登場したのはスペイン統治下19世紀。しかし、当時は主な幹線道路沿いだけでデザインもシンプルだったという。
同市に販売店や工場が建ち並び、各家庭に飾り付けられるなど季節の風物詩となったのは太平洋戦争後。「スペインの影響を受けているかもしれないが、この派手な飾り付けはフィリピン独自の文化だろう」と胸を張った。
同店では年間7,000個のパロルを製作、一個当たり400−7,000ペソで販売する。価格は首都圏の約半値で、遠方からの個人客や自治体、ホテルやガソリンスタンドが主な顧客。上得意客はサンフェルナンド市で市道の装飾に毎年、花型のパロルを500個を購入するという。
経営者のカルロ・パラスさん(38)は「9月に入ると店の中があわただしくなる。ただ、生産計画は1月から検討し、定番品はすぐ製作に掛かるので店の中は年中クリスマスだ」と話していた。
バナウエの自動車部品店街 日本の「秋葉原」を見る
ライステラス(棚田)で有名なイフガオ州バナウエとは別に、「バナウエ」で知られる「名所」がケソン市にある。自動車部品店が2キロにわたって軒を連ねるバナウエ通りだ。
ケソン通りをエドサ通りから西に走り、サントドミンゴ教会を過ぎると、左右に広がるバナウエ通りには数百軒ともいわれる自動車部品店。「AUTO
PARTS」「TOYOTA」「NISSAN」などの文字が並ぶ看板が両脇をにぎわせている。「パソコン」や「オーディオ」などの看板が踊る東京の電器街、秋葉原を思わせ、実演販売が見られるのも同じ光景だ。
1968年ごろから自然発生的に自動車部品店が集まり始め、80年代に現在のような街並みになったという。
車から顔を出し「サイドミラーが欲しいんだけど」と店先の男性に声を掛けてみた。すると即座に「あるよ。400ペソ」。「もう少し安くならないか」「いや、精一杯だ」とやり取りをしていると、窓ガラスに張るスモークフィルムを手にした別の男性が声を掛けてきた。納得がいくまで通りを往復し、窓越しに交渉するのがベテランなのだという。
フリーマーケットさながらの2メートル四方の「店」には、「多分、盗難品だろう」と店員が言うタイヤのホイールが並んでいた。盗んだ商品が持ち込まれ、盗まれた人が買いに来る。そんなサイクルも出来上がっている。
総合店は、国内の業者だけでなく、直接、日本に出向いて部品を買い付けるという。そのため、片言の日本語をしゃべる店員がいるのも親しみを感じさせる。
総合部品店、ロードスター・コマーシャルを経営するアルベルト・チュナさん(53)は、「月に一度のペースで神戸に買い付けに出掛け、コンテナ一台分購入してくる。コウベ知ってるか」と日本語交じりで話してくれた。ただ、最近は台湾製の新品が安く手に入るため、回数を減らしたという。
また、「日本人の中には『もうかるらしい』と安易に中古車売買に手を出し、商品がフィリピンに届かなかったり、代金を回収できず失敗する人がいる。日本との信頼関係を構築するのが最も大変で、簡単な商売じゃない」と続け、「日本人は人が良すぎるから」と笑った。
バナウエには、国内各地から自動車整備工場の店員も訪れる。マカティ市グアダルペでアサンテ・モーターショップを経営する中村近夫さん(43)は、「メーカーからの部品がなかなかそろわないのがこの国の特徴。困った時はバナウエまで社員を走らせる」と話した。
フィリピン文化センター 華やかな「国の顔」 (2001年4月20日)
パサイ市ロハス大通りからマニラ湾側へ西へ入ると100ヘクタールを超える「フィリピン文化センター(CCP)」の敷地が広がる。大ヒットしたミュージカル「ミス・サイゴン」が上演された劇場や外交舞台となるフィリピン国際会議場(PICC)などが建ち並ぶ華やかな「フィリピンの顔」となっている。
その中核施設のPICCではフィリピンで行われる国際会議の大半が開催されている。文字通りフィリピンの国際社会への「窓口」である。
三方を海に囲まれた敷地内に歩を踏み入れると、ジプニー、バスなどが醸し出す大通りのけたたましい騒音と排気ガスの世界は一変する。緑に囲まれ人通りもまばら。休日は親子連れでにぎわい、夜は若いカップルのデートコースとなる。外国の要人が集う場所だけに、管理者の国は警備の充実や景観保全に力を注いできた。違法占拠者は厳しく取り締まられている。
CCPは、1976年のマルコス時代にマニラ湾を埋め立てて造成された。フィリピン随一の会議場とされるPICCは、4,000人収容できるメインホールをはじめ、大中小の計14の会議場を有する。96年のアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議で橋本龍太郎元首相が訪れ、99年の東南アジア諸国連合(ASEAN)拡大首脳会議に出席した故小渕恵三元首相にとってはアジア外交での最後のひのき舞台となった。
こんなPICCが、イメージチェンジを図りつつある。海外ミュージシャンやクラッシックコンサートなどイベントを実施、親しみやすさを前面に出し利用者数増加を目指している。
きっかけとなったのは、今年2月22日に発生した火災。使用不能になった会議場が多く、利用者が減少したことから苦肉の策に出たようだ。CCP敷地内には音楽、演劇など文化イベントの殿堂であるCCP大劇場があり、強力なライバル出現となった。しかし、火災で一部が崩れ落ちた建物の復旧は進んでおらず現在も生々しい傷跡を残したままだ。
1999年末に香港からえい航された水上レストラン「マニラ・ジャンボ・パレス」も名物の一つ。しかし、エストラダ前政権下、相次ぐ公営賭博(とばく)施設開設が論議となり、「カジノレストラン開設か」との疑惑が浮上。今も営業されず放置されたままだ。違法賭博疑惑の発覚が発端となり退陣に追い込まれた前大統領の負の遺産だ。
だが、静かな敷地内は市民の貴重な憩いの場となっている。
ハロハロ! ユエニアス・アート・ギャラリー (2001年8月2日)
フィリピンには「ハロハロ」というデザートがある。ナタデココ、ウベ(餅)、あずきなどを器に盛り、かき氷をかけたパフェのことだ。ハロハロとは、「ごちゃまぜ」とでも言えばよいだろうか。食べるとき、まさにそれらをごちゃまぜにすることからそう名付けられた。フィリピンの国民性を、この「ハロハロ」で例えることも多い。
最大の歓楽街として賑わうマニラ市エルミタに、一軒の風変わりなギャラリーがあった。ファサードに描かれた「ART
GALLERY…」のほか、袖看板に「DENTAL CLINIC」の文字が見える。店内を覗いてみても、普通のギャラリーとあまり変わりはない。
たまらず「歯医者ってどういうことですか」と聞いてみた。オーナーのマリサ・レギオンさん(31)は、「私が歯科医も兼ねているのです。母が興したこの店はもう20年。母は私が後を継ぐことを望みましたが、歯科医になるのが私の夢でした。学校卒業後、いざ開業と場所を探していましたが、適当な場所が見つからない。じゃあ、いっそのこと店を継ぎ、店内に歯医者も開業してしまおう、とね」。
絵画を求める顧客がついでに歯も治療し、またその逆もある。顧客層が共通するらしい。「ちょっと強引でしたが、意外な相乗効果を発揮していますよ」。フィリピンはやはり「ハロハロ」だ。
ジャスコの発見 (2001年4月20日)
6歳になる長男は日本に滞在中、近所にあるスーパー「ジャスコ」が大好きだった。買い物の途中に試食コーナーでウインナーやピザ、シュウマイなどをうれしそうに「つまみ食い」する。「ボクのだーい好きなジャスコ」が口癖だった。
フィリピンにやって来て一カ月。慣れない生活に戸惑うのは大人も同じなのだが、息子の元気のなさが気になった。「どうしたんだ」とたずねると、「ジャスコがないから」と答えた。そこでジャスコより大きなショッピングセンターに連れていってみたが、「楽しくない」という。日増しに気持ちを落ち込ませていった。
気分転換させようと、休日にパンパンガ州マサントル町にある家内の実家に連れていった。田んぼに囲まれた緑豊かな農村地帯。都会暮らしとは異なり、伝統的な共同生活が生き続けていた。家の中にはいつも「他人」が出入り、隣近所の家にも出入り自由。台所で好物を見つけ、つまみ食いしても誰もとがめない。マニラにも、こんな伝統はまだまだ残っているという。
息子の眼は野性さを増した。近所の家を次々と回っては、気ままにムシャムシャを始めたのだ。ショーパオ(肉まん)やパンシット(焼きそば)、レチョン(豚の丸焼き)などのフィリピン料理を口にほおばり続けた。ついにフィリピンに「ジャスコ」を見つけた息子は、すっかり元気を取り戻した。
フィリピン人は、客人が腹をすかせることを極端に嫌うという。それに「便乗」したわが息子。「フィリピンはいい国だ」と頼もしい言葉を口にした。
米国のフィリピン人におもう (2002年6月10日)
今年の1月から米カリフォルニアに来ています。目的はいろいろありますが、一つにアメリカに住むフィリピン人の取材というのがあります。
フィリピンで生活し、いま一つしっくり来なかったのは彼らが生活していく上でのお金の流れ。国内で生活するフィリピン人の多くは仕事をしても満足な収入がないわけだし、地方へ行けば仕事すらない人たちが、たくさんの子供をかかえ山ほど。
でも、OFWからの送金ということで、家族は何とか生活できている。
日本に出稼ぎに来てフィリピンの家族に送金する姿は皆さんご存じの通りですが、アメリカからもたくさんのお金が送金されています。金額の順で言うとサウジ、アメリカ、日本だったかな(違うかもしれない)。
でも、フィリピーナが一般的に夜の世界で苦労の末にお金を得る日本とは、こちらの事情はちょっと違います。
アメリカには、カリフォルニアを中心にOFWというよりはアメリカ市民権を持った「移民」が、OFWに比べ圧倒的に多い。いろいろな経緯で移民となった人がいます。これまで僕が会った人たちは米軍関係者の子弟が大半で、親戚一同が芋づる式に市民権を取得しています。
彼らの生活ぶりは、まったく想像を絶します。貧相な測り方ですが、ここ、カリフォルニア南部のパームスプリングでは車2、3台にプール付の家は当たり前。彼らが金持ちかとは一概に決め付けられませんが、少なくとも日本で暮らす日本人よりもずっと優雅です。
昨日も、うちに、1カ月ぶりにフィリピンから戻ってきた僕の土産話を聞きに、家内のおじさんがベンツの新車に乗ってやってきました。彼は特に車が好きらしく、娘さんがフェラーリに乗り、実はうちもぼろいボルボを借りてます。
彼らもフィリピンの親戚に送金しています。
彼らに言わせると、米市民権を得ることができた自分たちは本当にラッキーだと。アメリカに来たくても来れない親戚のことを思うと、少なくとも彼らにお金を送らずにいられない、と。
そんなおもいを持ち、彼らは非常によく働いています。夫婦共稼ぎは当たり前。「仕事がなーい」とのんきに暮らしているフィリピンのフィリピン人とは全く違います。もともと、フィリピン人は勤勉な国民だと聞きます。
GNPの10%近くをOFWからの送金に依存している国。「出稼ぎ」という悲壮感漂う言葉でくくられる彼らの中にはこんな人たちもいるんですね。
海外の盆踊り (2002年8月18日)
米サンフランシスコのジャパンタウンで開催された盆踊りに子供を連れて行ってきた。マニラでも毎年開かれる盆踊りのごとく、久々に日本を堪能してこようと胸を躍らせた。
しかし、会場についてみると少し様子が違う。まず露店で売っているもの。盆踊りといえば当然たこ焼きやらみたらし、と考えるのだが、並んでいるのはバーベキューや寿司、照り焼きハンバーガー屋など。何か強引に日本を取ってつけたような屋台ばかりだ。いまいちすっきりしない気持ちで、少し肌寒かったが若い兄ちゃんが鉢巻姿で威勢良く客をさばいているかき氷屋の列に並んだ。
「ストロベリーとパイナップル二つ」と注文すると、兄ちゃんから返ってきた言葉は「Two cups? Or mix?」。おいおい、この兄ちゃん日本語しゃべれないのか。祭りの雰囲気から何となく予感はしていたが、祭り自体が日本人ではなく、日系人が中心となって運営されている。方々から聞こえてくるのは日本人の顔から発せられる、ネイティブな英語なのである。若くなればなるほどアメリカンイングリッシュに磨きがかかり、スラングだろうが何を言っているのかよく分からない。やっと見つけた金魚すくいとヨーヨー取りに興ずるも、おばちゃんから英語でルールの説明を受けるのでは風情もくそもなくなってしまった。
米滞在以来はじめての盆踊りだったので、その様子を友人に話してみた。すると、やはりそれはサンフランシスコだけの話ではなく、他地域でも同じなのだそうだ。友人によると、ロサンゼルスの盆踊りでは浴衣姿の人の輪に、振袖をまとった若い女の娘が何も知らず無邪気にはしゃぎ回るのが見られたという。おかしさを越えて哀れに思えてきた、と話してくれた。ハリウッド映画に出てくる変な日本人を例に出し、日本の文化が間違って米国に伝わってしまわないかと危惧しながら。
マニラの盆踊りではどうか。MJS(マニラ日本人学校)という閉鎖された場所で開催されることもあって、それはまさしく日本を再現しているといえる。出店の兄ちゃんにまさか日本語が通じないということなどもなく、日本を懐かしみたいという気持ちに拍車がかかり、日本らしさが日本以上に感じられる。
マニラで開催される日本人がらみの大きなイベントの大半は、駐在員が中心となって組織されるマニラ日本人会が指揮をとる。「駐在している家族の、マニラでの楽しい思い出づくりを手助けする」(鈴木翔三会長)というのが、同会の主旨である。その意味では、マニラの盆踊りは大成功だろうし、他の主催イベントも文句のつけようがないほど完璧に演出されている。
ただ、である。「一体あなたは海外に何しに来ているの?」ということである。仮に会社の辞令で行きたくもない国にとばされたとしても、せっかく外国にいるのだから少なくとも日本では味わえない他国の文化を吸収するとか、またその逆をしてみるとかそんな気持ちにはならないだろうか。米国とフィリピンとを比較して、「すき好んで住んでいる」在留邦人とそうでない人との割合がどれくらいなのかは知らない。しかし、日本人同士がかたまり、外国に日本を再現するばかりがよいことなのかと、マニラで日本のイベントに参加するたびに歯がゆく思えた。
翻ってサンフランシスコの盆踊り。日系人は顔が日本人だから日本人と区別し難いが、日本人以外の参加者のそれは多いこと。デカイ体で一所懸命はしを使っててんぷら(これも日本の盆踊りでは見かけない)を食べている黒人を見ると、思わず「持ち方こうですよ」と話しかけたくなってしまう。金髪のおばさんが、浴衣姿でどこかのカルチャースクールで覚えてきたのであろう東京音頭を踊っているのも微笑ましい。日系人が中心となり、現地の人を巻き込み地域ぐるみでイベントを成功させようという意気込みがひしひしと伝わってくる。
だからサンフランシスコが良い、とは単純に言えない。日本を味わうことができなくてがっかりしたのは事実である。しかし、排他的にすら感じてしまうマニラの祭りより、違和感を覚えながらも日本が他国との理解を深め得る可能性が、当地の盆踊りにはある
フィリピン人の打算(1) (2002年10月21日)
こちら(米サンフランシスコ)で知り合った47歳の日本人の友人が、今日、初めてフィリピンに飛び立った。家内のいとこと見合いをするためだ。見合いに先立ち、彼は何度も僕たち夫婦にフィリピン人と付き合う上でのアドバイスを求めた。
その中の質問の一つに、「彼女のご両親は僕に何を求めているのか」というのがあった。どう答えるべきだろうか? 僕は在米20数年で米国市民権を持つ彼に、@彼女の米国市民権A彼女ら親子が死ぬまで生活できるだけのお金B彼女の幸せ――と答えた。
本来、結婚を考える子供の両親が求めるものは「子供の幸せ」だけで十分だろう。しかし、敢えてそれより前に@Aを挙げて、今後、彼が経験するであろうフィリピン人の打算に幾ばくかの注意を促した。
友人と出会ったのは3カ月前。中古車を購入するためにやり取りをしていたディーラーの一社が彼の会社だった。彼を助手席に車を試乗している時、どちらからともなく家族の話題になった。
友人は20代で白人の女性と結婚し四人の子供を儲けたが、4年前に離婚。ここ数年、寂しさに耐えかね再婚を考え始めたという。ただ、白人は懲りたと言い、40代後半のバツイチでは、米国人に色めきだっている在米の独身邦人女性とはあまりにも接点がなさ過ぎる。結果、自分の価値を最も理解してくれるのは、日本を除く中国、韓国、フィリピンなどの「アジア系の女性」との結論に至り、周囲に協力を仰いでいるという。
僕の家内がフィリピン人だという話をすると、これまで一緒に仕事をしてきたフィリピン人を例に「彼らは働き者だ。実は一番の候補にフィリピン人を考えている」とやや調子の良いトーン。車を買おうとしている僕へのリップサービスぐらいに思っていたが、彼は本気で、車を受け取った日から毎日のように電話での質問攻勢が始まった。
友人はその後、毎週末にわが家を訪れては、フィリピン女性への想いを熱く語り帰っていった。そして、結婚相手の候補として親戚の紹介を希望し、ついに家内のいとこと見合いをすることになった。
フィリピン人と結婚している僕にとって、フィリピンのことを良く言うのはたやすい。しかし、友人が真剣になればなるほど、僕も家内も「フィリピン人には気をつけろ」という言葉が先に出るようになった。彼が米国市民であるため、結婚相手は同様に米国市民になることができる。家内とともに、彼に最もしつこく説明したのは、結婚相手には、愛情のほかに米国市民権取得や財産がちらついてしまうということである。
米国の法律では、米国市民の配偶者が市民権を取得できることを規定している上、市民権保持者が21歳に達すれば両親にも取得の権利が与えられる。一人の娘の結婚により、家族の海外就労の手立てができ、生活の糧ができるのだ。
相手の気持ちの、どこまでが愛情でどこまでが打算なのか、それを見極めるのが今回の結婚を成功させる最大の要因ということになった。40代、バツイチという自分の状況から、多少の打算は仕方がないが、もう二度と以前のような失敗はしたくないと、友人は何度も繰り返した。
日比という経済格差のある二国間の結婚で、金にまつわる話は枚挙にいとまがない。フィリピンの家族の援助のために、大金をつぎ込む羽目になってしまった日本人配偶者や、そうはならなくとも月々数万円の仕送りをしている人は少なくないだろう。金がもとでけんかをしたり、駆け引きをしたりして日比夫婦間の愛憎物語は展開されている。ただ「うちは金でつながっているのではない」と、そうなっていることを隠そうとする人や、自分の妻だけはジャパゆきでないのを暗に匂わせることで、金銭の問題が切り離されていることを、ことさらアピールする人もいる。
友人も4年前に高級住宅地に建てた8,000万円の豪邸だけは結婚まで隠そうと決めた。しかし、フィリピンに行ったときには洋服を買ってあげるなどの約束を、彼女のほか両親や親戚とまでちゃっかりしていた。援助される方に打算がある一方で、する方も全く気前のいいところを見せられないのでは、つらいといったところだろう。今回は、8日間の滞在予定である。
フィリピン人の打算(2) (2002年11月18日)
家内のいとことの見合いのため、八日間の渡比を終え友人が米国に帰国した。「フィリピンに行ったことだけは後悔していない」。逆接的な第一声から、見合いがうまくいかなかったことはすぐに分かった。事前に写真や手紙の交換に加え、電話でも話しをするなど準備は万全だった。
理由を聞くと、友人は「僕の年が47だということを向こうはどうも知らずにショックを受けたようだ。それ以来ほとんど彼女とはコミュニケーションもとれなかった」と言う。しかし、そんなはずはなかった。40代で離婚歴があり四人の子供がいるということは、家内が「重要事項」として電話で念押しをしていたはずだ。「ははーん、要は友人は先方さんに気に入られなかったな。断る口実として年齢のことを出したんだ」と予感した。あとで確認してみるとやはりその通りで、フィリピン人ならではの気遣いからそういうことになったらしい。
残念だったが、妙にほっとしたのも事実だ。前回のコラムでフィリピン人はあたかも米国市民権や米国での生活に目がくらむがごとく書いてしまったため、正直自己嫌悪に陥っていたからだ。今回の結果を通じて、フィリピン人が思ったほど打算的でなかったことに身内として安心した。
また、あまりにも話がとんとん拍子に進んでは、友人が家族となることをうれしく思う反面、若くて美しい(※筆者主観)フィリピン人女性がいとも簡単に手に入ってしまうという先入観を友人に植え付けてしまいそうで、フィリピン人を妻に持つ者として少し体裁も悪い。いずれにせよ、こういう結果になることを僕もどこかで願っていたのかもしれない。
本当に友人といとこはほとんど言葉を交わさなかったらしい。友人によれば「無視されていたに近い」とのことだった。「コーヒーを一緒に飲みに行ったり、二人で映画を見たりしたかった。トライシクル(※)で並んで座った時、手を握ろうとしたのがまずかったかな」と反省することしきり。
仮に好意があっても、フィリピン女性はいきなり二人きりでデートすることなどめったにない。そんな説明をするところまで僕も気がまわらなかった。根っからのセールスマンの彼は気持ちがはやってしまったようで、強引すぎたことが完全に裏目に出た。
期待を胸にやっと対面できた女性にそっぽを向かれてしまった友人は、早々と彼女に見切りをつけ、夜の街に繰り出した。また、現地で知り合った人を介して別の女性とも見合いをしたという。これらの女性とはそれなりに楽しめたようで、この辺が「フィリピンに行ったことは後悔していない」ということの一部らしい。ただ、あとでこれらはすべて彼女の耳に入り、友人の株をますます下げた。
友人の気持ちがいとこから離れていったのと同時に、彼女も家族も彼から離れていった。滞在の後半、友人が行動を共にしたのはいとこの離婚した両親の、父親サイドの親戚や知人だった。家内いわく、あまり評判の良くない連中だ。友人と娘との結婚がなくなったと踏んだ彼らは、もう家族の一員として彼をもてなすことに興味がなくなってしまった。
彼らにとって友人は既に、ただの小金を持つ鼻の下の伸びた外国人となった。そんな彼を料理することなどたやすい。友人も徐々に変化する親戚たちの態度に気づき始め、どこに行ってもたかりにくる彼らに嫌悪感をあらわにした。挙句、財布から気づかぬうちに500ドル抜かれもしたという。
ここまでやられるのも珍しいと思った。外国への適応には相性があると言うが、その点で、友人はフィリピンとの相性が悪かったと言わざるを得ない。相性の悪さは留まることを知らず、彼は1,000ドルもの金を「浪費」したと言った。
「ちょっと彼らのことを見下していたんじゃないですか。そういう相手には厳しいですよ」と思わず僕も本音が出た。しかし、「打算」「打算」と友人に予防線を張らせてしまったのも僕である。結婚についての打算を説明したつもりが、予期せぬところで、とんだフィリピン人の打算に彼を遭遇させてしまった。
「でも懲りずにまた来年行くよ。一から出直しだ」と言う友人に、もう余計なアドバイスは自重すべきだろう。
※オートバイの横にサイドカーをつけた三輪車。フィリピンの重要な近距離交通手段
引越し (2003年1月28日)
引越しをした。ホームレスがごろごろしていた以前のダウンタウンのボロ屋から、車で10分ほど郊外に出た、ジャパンタウンまで歩いて5分の静かなアパートに移った。紀伊国屋書店や日本食材店も近く日系移民と会う機会も増え、取材の足しになる情報もたくさん入るようになった。
引っ越す前の部屋は嫁の兄貴に世話をしてもらったが、今回は最初から最後まで自分でやった。インターネットで賃貸アパート情報を集め、空き部屋を見せてもらう中で知り合った不動産屋から紹介を受けた物件で、名義も自分だ。
サンフランシスコは東京の一等地並に家賃が高く、米国内でも住宅難の場所の一つとして知られている。また、米国では入居の条件にクレジットヒストリー(クレジットの支払い履歴)を必要とするなど、滞在歴の浅い外国人が自力でアパートを借りるのはかなり困難というのが一般的な認識。名義を貸してくれる、という親切な人も何人かいたが、人の力を借りるのはどうしても嫌だった。
今月の30日で渡米丸一年。これまで嫁経由で色々なフィリピン人に世話になってきた。が、もう人の世話になるのはうんざりなのだ。率直に言って、米国にいるフィリピン人はタチが悪い。フィリピンとフィリピン人を愛している僕にとっては、何万といる在米フィリピン人のうちのごくわずかな人だけと信じたいのだが。
貧乏人が運良く米国に移民できて、3Kの仕事で小金を得ると性格も変わるものだ。初めのうちはそんなところは見えない。しかし、半年も付き合っていれば彼らの歪んでしまった本性が見えてくる。
彼らは、フィリピンに住むフィリピン人に対して圧倒的な優越感と差別意識を持っている。母国語を使わず英語で会話する人もいるし、多くの親が子供には母国語を教えない。彼らにとって憧れの米国にいるのだから当然と言えなくも無いが、僕らのような新参者(僕はフィリピン人ではないが、同じようなもの)に対して、優位に立っていなければ気持ちが治まらないようだ。
それでも僕らは日本人の家族だから、金が無いとは言っても多少の蓄えや、フィリピン人とのライフスタイルの違いから日々の生活の節制により少なからず余裕が出てくる。そこから車を買ったり、ボロ屋から引越しする準備をしたりする。
「生意気な奴ら」。これが渡米後しばらくして、周囲のフィリピン人がうちの家族に張ったレッテルである。何で日本人のくせにフィリピン人の集合アパートに住んでいるのだ、もっと良いところに住めばいいじゃないかと。「日本人なのに米国に働きに来ているのはきっと日本にいることができない理由がある」という陰口を人づてに聞いたときには、あきれて開いた口がふさがらなかった。
話はそれるが、米国にいるフィリピン人を勤勉な人達と以前書いた。それは全く否定できない。彼らにとって仕事は、金を稼ぐための手段である。3Kだろうが5Kだろうが関係ない。日本の一部サラリーマンのように、適当に働いて適当にさぼって適当に給料をもらうという考え方はないようだ。何しろ馬車馬のように働く。「ダブルジョブ」(仕事を二つ持つこと)なんていう言葉を、フィリピン人との会話ではよく耳にするし、実践している人は誇らしげにそれを話す。それが彼らを勤勉たらしめているのだ。
そんな人達だから、仕事のある日本からリスクを冒して海外に出てきた僕ら家族のことは、当然理解できない。ことあるごとに何度も話をしたが、それは皆不思議そうな顔をしていた。日本人の常識ではさほど大したことではないが、ここは日本でもないし、ましてや周囲にいるのはフィリピン人で日本人は僕だけ。僕の常識などへのツッパリにもならないのである。
そして、彼らは僕たち家族に嫌がらせをするようになった。細かいことを書いたらきりがないが、引越しの直接のきっかけとなった極めつけは、僕らのベッドルームにアパートのマネジャー(嫁の知り合いのフィリピン人)が、部屋を真二つに仕切る壁を作ったのだ。「来週からうちの両親がここ(仕切ったもう一方)に住む。家賃はその分減らしてあげる」と。
こちらのアパートの構造は根本的に日本と違うのでイメージがわき難いだろうが、他人が金を払っている部屋を半分に切るなどちょっと考えられないだろう。完全に「出て行け」というサインだった。スマートに生活する僕ら家族に対し、「自分たちが経験してきた苦労の一つを家探しで経験しろ」といったところだろうか。文句を言うことはできたが、入居の際に便宜をはかってもらったし、既に引越しの準備を進めていたこともあり結局何も言わなかった。
普段、そんな態度を彼らはほとんど表に出さない。フィリピン人の相互扶助の精神は米国でも健在で、これまで彼らの助けを受けながら米国での生活を軌道に乗せてきた。しかし、彼らにとって大切なのは、助けた相手からの見返りなどではなく、助けた相手を精神的に支配することのように感じる。振る舞いのどこかで感謝の意を表し、それを感じ取ることで周囲の人間との序列を形成していく。だから、僕らの生活が彼らには許せなかった。
そんな理由で、もう他人の世話になりたくなかった。知り合った不動産屋が日本人びいきで審査が甘かったのか、苦労を感じることもなく条件通りの物件を見つけることができた。「日本人は部屋をきれいに使うので不動産屋は貸したがる」とも言われるが、その恩恵を受けたのかも知れない。
米国で暮らすフィリピン人を取材テーマの一つとしている中、まだまだ僕の見方、感じ方は全くもってゴールに達していない。ただ現在、引越しという私事を通じて彼らのネガティブな面が僕のフィリピン人との付き合いを遮りつつある。これではいけない、と気持ちを新たにし、無性にフィリピンでの生活が懐かしいこの頃だ。