「がんばれニッポン」
シリコンバレー、バイオ産業の核弾頭 桝本博之
一九八〇年代中ごろから九〇年代にかけIT企業一色に染まったシリコンバレーは、二〇〇〇年のITバブル崩壊後、バイオテクノロジー関連企業にその座を取って奪われた。シリコンバレーを含めたサンフランシスコベイエリア全体に数えるバイオ関連企業は六百社超。全米に九つあるとされるバイオ企業集積のうち、株式公開している企業の五分の一がこの地にあるというから、その集中度合いが分かる。
「バイオテックベイ」と呼ばれるようになったこの地は、バイオ分野に強いスタンフォード大学、カリフォルニア大学サンフランシスコ校から生み出される研究開発と既存のIT企業とが融合し、多様なビジネスチャンス作り出す土壌となっている。投資の矛先をIT関連から移したベンチャーキャピタルの巨額の投資も相まって、バイオ関連のベンチャー企業が続々と生まれている。
この潮流に二〇〇〇年春、桝本博之が設立したバイオベンチャー、Bブリッジ社も乗っている。研究者がそのまま経営に参画することの多い業界にあって営業畑出身の桝本は異色である。抜群の営業力と一度見たらまず忘れない、剃り上げた頭に一八〇センチ一〇五キロの巨体。それらを生かし、日本全国に幅広い販路、スタンフォード大学に強いパイプを持つ同社は業界の核弾頭とも言える存在だ。それでいて、外見からは想像のつかない冷静沈着で緻密な性格をも見せる桝本に、シリコンバレーの起業家の代表として話を聞いた。
「掛け橋」の意義
同社が行うのは、研究用試薬の販売、日米の研究者による共同研究の仲介事業である。研究用試薬とは、医師の処方や薬局等で私たちが手にする前段階に、ねずみやうさぎなどの動物で効用、副作用などが実験されている薬のことだ。桝本は日米のバイオテクノロジーを比較し、その質の違い、研究開発が商品化されるまでのスピードの違いにビジネスチャンスを見出した。Bブリッジを設立してそれを形にするのだが、とりわけ日本人としての気概の強さが感じられる。
「どの分野でも言えることだと思いますが、日本ではすばらしい研究開発がなされたとしても、稟議やしがらみなどでその商品が世に出るまでに長い時間を要します。一方、アメリカにはスピードがある。僕たちは、従来日本の大手商社を中心に複数の段階を経ていた商品の流通経路をまとめあげ、簡略化しました。日本からはわずらわしく腰が引けてしまいがちなアメリカとのコミュニケーションも、こちらに事務所を置くことで日本サイドに負担を掛けずスムーズに行うことができます。日本の質の高い研究開発にアメリカのスピードをミックスさせ、良いものを少しでも早く世界に知らしめる『メイドインUSAバイジャパニーズ』を実践したのです。
また、日本はアメリカを意識していますが、アメリカ人は私たちが思うほど日本を意識していません。日本製品は非常に優れていることを知らないアメリカ人はまだまだ多い。それを僕たちはバイオを通じてやっていきたいのです」
桝本は自分のモットーを『がんばれニッポン』と照れもせず言ってのけた。その後も、「日本人としてアメリカに住んでいる」「日本人として生きている」と、何度も日本人という言葉を口にした。
社名の「B」はバイオあるいはビジネスを表す。「ブリッジ」は文字通り日米の「掛け橋」の意。海外で業をなす日本人を取材すると、文化の掛け橋、食の掛け橋、人材交流の掛け橋など、さまざまな掛け橋に出会う。しかし、多くある掛け橋の中には、かけ声だけで掛けられずに終わったものや、掛けたけれども誰も渡らずに倒壊してしまうものも多い。「掛け橋」という言葉は、その便利さから海外の在留邦人の間で安易に使われがちである。
桝本は敢えてそれにこだわった。設立から三年、毎年三倍ずつ売上げを伸ばす急成長ぶりが、その役割を見事果たしていることの証だ。躍進する同社に、業界誌は桝本をたびたび取り上げ、時折インパクトのある顔が表紙を飾る。地元の日本語ラジオ局にも登場したり、日本からの講演の依頼やシリコンバレーのバイオ関連企業をまとめた書籍出版の話も舞い込んできたりする。
「もちろん初めからうまくいった訳ではありません。会社設立に向けてずっと話を進めてきたパートナーが直前になって下りてしまい、半分の資本金三十万ドルを失ったところからスタートしたんです。
起業当初は住宅街の一軒家を事務所にしていたのですが、実はこれは違法で、近所の人の通報で市のインスペクター(調査員)が来たこともあります。その場では調査員への対応はもちろんですが、社員に対してどう振舞ったら良いか焦りましたね。パートナーに逃げられ、僕は社員のほとんどを公募で集めてまして、そんな彼らは皆、一流大学を出た優秀な社員ばかりです。会社が違法行為に関わっていると分かれば彼らを不安にさせ僕らの信頼関係も揺らぎますからね。
そんなんでもやってこれたのは、社員の頑張りと僕の楽観的な性格です。社員は当時、朝から夜中まで休みなしで働いてくれましたし、僕も『ダメかもしれない』『でも何とかなるか』その繰り返しでした。今でもそうですよ。決して安心なんかできません」
二〇〇〇年秋、同社は社外から重要なブレインを招く。招聘を受けた副社長の安藤弘法は、桝本とは同志社大学の同級。阪神交通社の国際航空貨物事業で米国に九年の駐在経験を持った物流のプロフェッショナルだ。温度に敏感で有効期限に厳しく、配送に多大な神経を使う製品を取り扱う同社にあって、安藤は同社の不安を取り除くのに最適な人材だった。安藤の加入で、同社が米国から日本に掛けた橋はさらに強固なものになっていった。
「一日五十円の生活」が桝本を海外に駆り立てる
桝本が海外を意識し始めたのは中学一年のころだ。当時、駐在していた父親を頼り夏休みに五十日ほど滞在したインドネシアでは、出会った人、経験したことがその後もずっと脳裏に焼きついていた。全く違う文化、習慣、食べ物、服、肌の色。若かったこともあり言葉への適応は早く、帰国するころには現地の迷子を警察に連れて行くほどになっていた。
海外に対する思いが一層強くなったのは大学時代。急に姿を見せなくなった友人が一年経って大学に戻ってきた。聞くと、シベリア鉄道に乗りヨーロッパを浮遊していたという。金もビザも無く超過滞在で、パリで日本人観光客向けに「おにぎり」をにぎって生活費を稼いでいた。桝本はそのたくましさに魅せられ、彼に倣うように大学三年の時、ヨーロッパと米国を五十日ほど、それそれ所持金たった三万円で放浪する。
「三万円には友だちへのおみやげ代なども含まれていますから、一日五十円ぐらいで生活するわけです。コーラ一本とか落ちている物を拾って食べるとかね。
腹が減って仕方がない。体重も十五キロぐらい減りました。人が食べているものをじーっと見ていると、食べ物を分けてくれる人もいます。イタリア語とかスペイン語とか何を言っているか分かりませんが声を掛けてくれる。
歩き疲れ足が痛くてしょうがない。宿もないしそこがどこかも分からない。歩いていて人に絡まれたりまた逆に絡んだり。ローマのトレビの泉で頭を洗っていて警察の世話になったことや、当たらなかったけどピストルで撃たれたこともあります。辛いのに、すごく辛いのに、そんな生活から一人で全く知らない海外の土地に出て行く魅力が見えてきたのです」
海外で生活する人、とりわけ成功している人には、何かしらそうさせるだけの、他人が納得するバックグラウンドがあるものである。
桝本は大学卒業後、父親が勤めていた東洋紡に入社する。配属は同社の新規事業である生化学事業部。同事業部で、桝本は上司からの英才教育を受ける。「人当たりが良かっただけ」と謙遜するが、大卒の同期入社百八人の内、自分が同社の幹部候補として出世コースに乗せられていることを薄々と感じていたという。
入社二年目に一つの修羅場が訪れた。上司を訪ね英国から来た客の対応を、上司の急用で任されることになったのだ。当時は英語を十分に操ることもおぼつかなかったが、必死の交渉の末、何とか商品の販売にこぎつけることができた。しかし、一週間後先方から送られてきた手紙には「上司に会えなくて失望した」としたためられていた。この屈辱が、のちに世界を舞台に数々の商談を成立させていく踏み台となる。
東洋紡へ入社した理由の一つに、同社での海外駐在という目論みがあった。海外での生活に夢を持つ桝本は、入社以来、一貫してニューヨーク駐在を希望し続けた。六年が経過したころ、ドイツ・ハンブルグへの駐在の話が訪れる。朗報だったが結局、経費との兼ね合いで出張をベースとした勤務で話がまとまってしまう。
「アメリカに行きたかったんですけど、生化学一本でやれるのはハンブルグしかないということになりましてね。
出張ベースというのは、生活することと全く違います。三カ月間ハンブルグを中心にヨーロッパ全土を飛び回り一カ月日本に帰る、その繰り返しです。土日はパリにいることが多かったのですが、やることといったら洗濯だけ。日本の仕事との兼務ですから、帰ってくると三カ月の間に千枚ぐらいのファクスがたまっていて、そのほかにハンブルグから送ったファクスが六百枚ぐらい。レポートがこのぐらいの厚さ(約三十センチ)になります。
自宅のあった神戸で地震が起きたのもそのころです。家がぐちゃぐちゃになりました。実はちょうど同じ日に二人目の子供が生まれましたが、そんな大変な時に家族に会うこともできない。子供がいつハイハイし始めたのかも、おっぱいをきちんと飲んでいるのかも分からない。僕の父親が同じように単身赴任をしていましたから、子供の辛さが分かるのです。こんな生活たまらんと思いました」
宿泊先のホテルに、米国・カリフォルニア州に本社を置くバイオテクノロジー企業、クロンテック社からヘッドハンティングの電話が入ったのは、桝本のストレスが最高潮に達していたころだった。十分ほどの話で桝本は米国行きを即答した。
「以前、クロンテックの商品を日本でディストリビュート(供給)していまして、もう一度日本の窓口に戻ってくれないかと頼まれたことがあったのです。ただ、それは僕でなく会社が決めること。話し合った結果、僕を入れて世界での売上げを伸ばそうということになったらしいです。男冥利に尽きますよ。海外、特にアメリカで生活する夢は持ち続けていましたしね。
実はその電話がかかってきた時、ウンコをしようとして便器に座っていたのです。もうすぐでそうだったので『(電話に)出ようかな、止めようかな』って考えて、結局十回コールぐらいで出たんです。あそこでウンコしてたらこの話は無くなっていたかもしれませんね(笑)」
九六年七月、桝本は妻と二人の子供を伴いカリフォルニアへ渡った。
「ドメスティック英語」と「インターナショナル英語」
桝本は富山生まれの大阪育ちである。「三秒に一回は相手を笑わせようと思っている」と言う通り、取材中もまるで義務のように自らのエピソードに笑いを交えてくる。このあたりが彼の言う「人当たりの良さ」でもあろうが、決して相手を飽きさせない話ぶりは、桝本の魅力の一つである。
クロンテックへマネジャーというポジションで迎え入れられた桝本は、赴任二日目、社員を前にあいさつのスピーチをすることになった。
「英語には色々と苦労させられました。出張ベースとアメリカの会社で働くのとは自分を取り巻く英語の環境が全く違う。こう、英語がスーと前を通っていく、そんな感じです。当時、一番英語が下手なのが僕でしてね。僕をヘッドハンティングした副社長も台湾人であまり英語が得意でなくて、そこで僕はアメリカ人の部下を前にこうスピーチしたのです。
『キミたちと僕たちの英語は違いますよ。キミたちのはドメスティックイングリッシュで僕たちのはインターナショナルイングリッシュ。僕の英語についてこれたら、それで初めてインターナショナルなコミュニケーションがとれたことになるのです。いつでも(インターナショナルイングリッシュを)教えますから僕のところに来てください。(日本人にとって)LとRは同じですよー』ってね(笑)。これはウケました」
「国を創る」
クロンテックに移ってからの桝本は、会社の問題をすべて会社で解決することを心掛けた。会議では問題点をすべて抽出し、その場で結論を出した。おかげで、日本のサラリーマンのように酒の席で愚痴る必要が無くなり、肥大していたストレスはゼロになったという。一見何の変哲も無いことのようだが、無駄なことを善しとしない合理的な一面が垣間見える。
Bブリッジ設立のきっかけは何の前触れもなく訪れた。当時同社の日本法人の社長を兼務していた桝本は、突然副社長から本社へ呼び出された。社員三百人程度の中堅企業だったクロンテックが、三万人の巨大企業に買収されると知らされたのだ。
買収後は社長、副社長、桝本を始め旧クロンテックの社員の大半は会社を去った。好条件で要職へのオファーもあったが、大企業から移籍し中堅企業の機動力を肌で感じていた桝本にとって、それも大企業のコマに戻ることでしかなかった。
経営者を「一国一城の主」などと言うことがあるが、桝本は二十代のころから「自分の国を創る」ことを夢にしてきたのだという。その片鱗は現在、そしてこれまでの経歴からも十分に見て取れる。
二十代の半ば、東洋紡時代に三重県四日市にある同社最大の紡績工場へ人事担当者として二年間赴任したときの話だ。そこは、細井和喜蔵の『女工哀史』に描かれた物語さながらに中学を出たての女子行員が四百人近く働いており、人事労務問題の多発が必至の職場だった。そこで、桝本は工員を統括する女子寮主事という職務を負う。結果的に、毎年百人ほどの採用で八十人が退職していた職場で、逆に八十人が定着する職場へと大幅に離職率を改善させた。
経営者となったいまは、社員の働く動機づけとなる成果配分に気を使う。先ごろ支給されたある二十代の社員の賞与は桝本の六倍。日本では大企業の部長クラスに相当する。
「四日市の工場を見た時はカルチャーショックを受けました。寮ではかなりルールを変えましたね。あと、女の子の名前、家族構成、職場、出身地を三日で全部覚えました。だって、アケミとユミコとしゃべっていて、ユミコの名前を忘れてアケミの名前ばかり言っていたら、ユミコは『私を思ってくれていない』となるでしょう。お父さんが亡くなっていない子に『お父さん元気?』なんて聞いたら大変ですしね。記憶するのは好きでしたし、生化学の時に覚えた『コレステロールオキシダーゼ』とかよりずっと簡単ですよ(笑)。センセイと呼ばれて金八先生みたいでしたね。
今は、会社で『社長の特権』みたいなのを作らないようにしています。金に関しては、クロンテック買収に際して、中国系の社長は百六十ミリオンドル懐に入れて辞めていった。僕は上から十番以内でしたから、家が買えるぞ、フェラーリに乗れるぞって期待していたんですけど、蓋を開けてみたらその辺を走っている4WDのトラック分です(笑)。中国人は本当にちゃっかりしています。うちの社員にはこんな思いはさせたくないですね。
国を創る夢は、結構、真剣な話です。世界に生え抜きの国王はいるけどサラリーマン上がりの国王はいないでしょう(笑)。島買って、通貨に僕の『ヒロ』をつけて、息子の顔なんかをコインに載せちゃってね。今でも国を創る勉強してますよ」
独立後の活躍は前述の通りである。
「日本人の繊細さをアメリカの豪快さとミックスさせるのが日米の国際化の醍醐味です。日本にいたのではアメリカのカルチャーに解け込むこともスピードを味わうこともできません。旅行ベースでは写真と同じでその瞬間だけしか見えない。言い方は悪いですが、駐在員も長いスパンの旅行です。
我々はいつ帰るか、それを決めないことで生活感を味わうことができる。安定や将来のことを考える必要はない。日本を代表して、日本のゼッケンをつけて、その場で燃え尽きるつもりでやればいいのです。イラク戦争でも日本はアメリカの言い成りになった。一人ひとりが微力でもやれることをやっていく、それが僕の言う『がんばれニッポン』なのです」
在米七年、刻んできた軌跡をこれからの人たちへのエールに変え話を締めくくった。
NHKのど自慢で栄冠を勝ち取る
取材から一週間後、私は桝本に招かれ再びシリコンバレーを訪れた。互いに酒を飲んで騒ぐのが好きということから、カラオケに行くことになったのである。この日は副社長の安藤も一緒だ。
彼らとカラオケに行くのは、実は大きな意味がある。桝本、安藤の二人は二〇〇三年三月十五日に東京で行われたNHKのど自慢グランドチャンピオン大会の優勝者なのだ。前年七月、サンフランシスコでのど自慢が開催されるということで、在日社会は一時、ちょっとした騒ぎになった。当日は北島三郎と中村美律子をゲストに全米から五百五十人に上る出場者を集めた。
当時、私は彼らと全く面識が無かったが、ブラウン管越しに見た桝本の強烈な容姿と二人の織り成すハーモニーの美しさはずっと記憶に残っていた。グランドチャンピオン大会は、各回の優勝者が年一回、その年の王者を賭け争う同番組最大のイベントで、同年は予選を含め延べ三万六千人が自らの声を競い合い、二人はその頂点に上り詰めたのである。
失礼ながら私は幼少の記憶から、のど自慢はお年寄りが楽しむための番組だと決めつけていて、サンフランシスコ大会を見るまで随分と同番組から遠ざかっていた。しかし近年は、相変わらず主役に花を添える「迷」脇役がいるものの、多くがプロを目指す人で構成され、オーディション番組と言えるほど出場者の歌唱力は洗練されているようだ。そのなかでグランドチャンピオンを手にした彼らの歌声がいかにすばらしいかご理解いただけるであろう。
「二十人程度の会社ですから、二人がうまくやらないとどうしようもない。仕事でもめても、歌を歌えばすぐに仲直りしちゃいますよ」と桝本。「歌を通して、二人のハーモナイズの暗黙の確認し合いっこをするんです」と安藤。大学時代、同じ軽音楽部の別のバンドでボーカルを務め、互いを牽制し合う宿命のライバルだった二人が、二十年を経て、米国カリフォルニアで無二のコンビとしてタッグを組んでいる。
桝本博之(Masumoto,
Hiroyuki)
一九六二年一月二四日生まれ
富山県福光市出身
同志社大学商学部卒業
Bブリッジインターナショナル、代表取締役社長兼CEO
一九九六年七月入国