【まえがき】

海外でこそ力を発揮する人たちがいる

 

 

 一昨年取材したフィリピンに続き、海外で生活する在留邦人の話をまとめるのは二カ国目となった。そこで見えてきたのが、

 

@日本でも海外でも成功するタイプ

A日本で成功しても海外ではだめなタイプ

B海外でこそ力を発揮するタイプ

Cどこに行ってもだめなタイプ

 

 この四つのうち、Bの存在である。@のタイプはいわばマルチプレーヤーで、何をやらせてもそつなくこなす能力を持つ。このようなタイプはどこにでもいて決して珍しくも何ともない。次にAだが、これも珍しいタイプではない。海外生活に適応するには、能力などとは違う一つの適性のようなものがある。その国を人一倍好きだったり、他人と横並びでなくても気にならなかったり。こうした海外への適性がなければ、いくら能力があっても生活自体が長続きしない。

 そして、B。四つのタイプが明確に色分けされるわけではないが、私が出会った在留邦人の中には明らかにこのタイプに属する人がいた。しかも、少数ではなく結構たくさんいるのだ。自分から言う人もいれば、失礼ながら「この人は日本ではだめだな」と思わせる人もいる。

 Bの人たちは、とても頭が良い。つまり、自分の能力を発揮できる場所が海外であるという的確な自己分析ができる人たちだからだ。

高度にシステム化された社会が敷いたレールの上に乗り、そこから外れることに大きな勇気と罪悪が伴うのが日本である。しかし、多くの外国人が集まる米国にいると、こんな社会がとても特殊な国柄の上に成り立っていることが分かる。時間を守る、常に長期的な計画を立てる、お金を貯める、根に持つなど、日本人が普通に行っていることが海外では時に尊敬の対象となり、時に失笑を買ってしまうのだ。

 そう考えれば、世界の中のほんの一部分である日本を出て、しかるべき場所で自分の能力を発揮できる人がいても何ら不思議ではない。本著の目的は、海外で働こうと考えている人を支援することはもちろん、日本では力を出し切れない人が持っている潜在能力の顕在化、つまり、Bの人たちの発掘を第一の狙いとしている。「的確な自己分析」――。これができなければ、限りなくCの状態を続けることになるのである。

 二〇〇三年は十人のプロ野球選手がメジャーリーグ(MLB)でプレーをした。今年、海を渡った松井をはじめ野茂やイチローの活躍は、テレビ中継や新聞報道などから米国にいるより馴染み深かったに違いない。彼らの中で、私が特に注目しているのは現在、モントリオール・エクスポズに所属する大家友和投手だ。日本では横浜ベイスターズに在籍し五年でわずか一勝しかできなかった投手が、一九九九年に渡米、大リーグの二軍、三軍を行ったり来たりしながら、今では同チームの開幕投手を務める押しも押されもせぬエースに生まれ変わった。プロ野球という野球界のエリート集団の中での話ではあるが、大家投手こそ「米国でこそ力を発揮するタイプ」の典型と言えよう。松井、イチローなど最初から億もの年俸で迎え入れられた彼らは、さしずめ駐在員である。

もう少し野球の話をすれば、米国にはわれわれが普段テレビなどで目にするメジャーリーガー以外に、メディアからほとんど見向きもされない二軍、三軍、四軍、独立リーグ(MLBの傘下に所属しないプロ野球リーグ。米国には六つ程度ある)に所属し、将来のメジャーリーガーを目指している人たちが五十人近くいるのを知っているだろうか。米国以外に目を向ければカナダ、台湾、韓国、中国、イタリア、オランダなど、百三十人もの日本人プレーヤーが海外で野球をしている。彼らの多くは、日本のサラリーマン以下の給料で、けれども、夢を実現するために必死で戦っている。

 海外で力を発揮する人たちの、より具体的な見極め方は色々とある。例えば、人の話をあまり聞かない人というのはどうだろう。海外では常に自己主張が要求される。言わないことは考えていないことと同じで、日本人の美徳とする行間や表情、場の雰囲気から人の心を読むことなど、他の国の人はしない。人の話を聞かないのは良くないが、人の話を聞く以上に自分のことばかり話している人には海外で成功する才能があると言える。

 恥ずかしがらない人はどうだろうか。海外で生活する上で一〇〇%避けて通れないのは語学である。語学の習得に恥はつきものだ。恥ずかしがっていては、なかなか語学は上達しない。中高生のころ、やたらとネイティブっぽく教科書を読んでいた奴とか、海外旅行に行って、英語もろくに話せないくせに必要以上に「R」で舌を巻く奴などは見込みがある人かもしれない。

私自身は海外での生活が三年目になる。日本でサラリーマンをしていたころを思い起こせば、程度の差こそあれ周りに「海外で働きたい」と考えている同僚は決して少なくなかった。日本でのサラリーマン生活に満ち足りていない者、それなりに満足している者といろいろだが、パッとしない奴の中には「あいつこそ海外に出ていれば実力を出せるのに」と思える奴もいた。

しかし、日本社会がそうはさせない。一度、レールを踏み外してしまうと、元に戻るには数倍の労力を要する。これが、日本社会の現実でもある。

 

移民、多人種の住むカリフォルニア

 

 さて、話をカリフォルニアに移そう。カリフォルニアを他国、米国の他州と比較して形容すれば、真っ先に思い浮かぶのが「移民の州」という言葉だ。「人種に富む州」とも言うことができる。カリフォルニア州の人口は二〇〇二年で約三千五百万人。人種構成は白人(ヒスパニック・ラテン系を除く)が全米六九・一%に対しカリフォルニア州四六・七%、ヒスパニック・ラテン系が同一二・五%に対し同三二・四%、アジア系は同三・六%に対し同一〇・九%、黒人は同一二・三%に対し同六・七%である(二〇〇〇年米センサス局調べ。ヒスパニック・ラテン系は他人種との重複あり)。つまり、全米では七割を占める白人がカリフォルニアでは過半数を割り、その代わり三人に一人がメキシコ人などのヒスパニック・ラテン系、十人に一人がアジア系となるのだ。

さらに、ヒスパニック系、アジア系などの移民は都市部に集中する傾向がある。ロサンゼルス市では何と四六・五%、つまり半数がヒスパニック・ラテン系であり、白人は実に二九・七%と第二人種に転落する。サンフランシスコ市では四人に一人がアジア人だ。両市とも、実際に街を歩けば明らかに白人より中国人、ヒスパニック系の人たちが目に付く。加えて、国勢調査に参加していない、南から流入している違法滞在のメキシコ人を加算すれば、ヒスパニック系の実数は倍以上に膨れ上がることも考えられる。米国の象徴の一つである白人は、もはやカリフォルニアの都市部では少数民族なのである。

先にカリフォルニア知事に選出されたアーノルド・シュワルツェネッガー氏もオーストリアからの移民だ。彼の話す英語にはドイツ語訛りがあり、われわれ日本人が聞いてもネイティブ英語との違いがはっきり分かる。そんな人でも、州のトップに立つことができる州、それがカリフォルニアなのだ。

 移民だらけのカリフォルニアはわれわれ外国人にとってとても住みやすい。まず、一般的に言われがちな差別が少ない。街中でも違和感がない。食生活も、われわれアジア人にとって最高の環境が整っている。サンフランシスコ、サンノゼのジャパンタウン、ロサンゼルスのリトル東京などのほか、チャイナタウンがわれわれの胃袋の欲求を十分過ぎるほど満たしてくれる。

 カリフォルニアでの日本人、日系人の位置付けとしては、それぞれ百万人近い中国系、フィリピン系の約三分の一、三十万人が生活していると言われる。アジア系ではベトナム系、韓国系に次ぐ五番目の勢力だ。

 日系移民がはじめて米国を訪れたのは、今から百三十五年前の一八六八(明治元)年、ハワイのサトウキビ農場に出稼ぎに渡った百五十人の労働者である。米国本土には翌六九年、明治維新で国を追われた会津藩士らがサンフランシスコに農場の建設と国の再建を目指した。本格的に米国への移民が始まったのは、日本が労働者の海外移民を合憲化した八四年。それから二〇世紀初頭まで、数多くの農業移民が太平洋を渡り成功を収めるが、一方で日本人移民の増加が白人の人種的恐怖心を煽り、排斥運動へと発展する。一九二四年、日本人の定住を目的とした渡航を禁止する排斥移民法の制定で米国への日本人移民は冬の時代を迎え、それは第二次世界大戦終了まで続くことになる。

 日系移民の歴史を再び切り開いたのは、進駐軍兵士と恋に落ちた若い日本人女性たちだった。戦争花嫁と呼ばれた彼女たちが最初に海を渡ったのは戦後の四八年。先に制定されたGIフィアンセ法を契機に、五七年のピーク時にはその数は五千三人を数えた。そして六〇年以降、日本の高度成長期の到来で、日系移民の一つの歴史が幕を閉じる。もはや、日本人は海外に出稼ぎに行く必要が無くなったのだ。

 現在の日系社会を構成するのは、二〇世紀初頭に渡米した一世の次、その次、そのまた次の二世、三世、四世の人たち。戦争花嫁と言われた人たちもいまは高齢化し、既に他界した人も少なくない。さらに戦後、海を渡った新一世と呼ばれる人たちがいる。彼ら米国市民に帰化した人やその子弟を「日系人」または「日系米国人」と言い、そこに駐在員、起業家、現地採用者やその家族、留学生など十万人(在留届ベースでは七万人)の「日本人」が加わる。

 

カリフォルニアで働く

 

 本著の「インタビュー」には、シリコンバレーの起業家、ハリウッドの役者、弁護士、性同一性障害を抱える学者、プロフットボールチームのチアリーダーなど、カリフォルニアならではのユニークな日本人が登場する。当面、われわれが目指すであろう現地採用の会社員にも話を聞いた。成功している人ばかりではなく、これから当地を活躍の舞台とする人や夢を目指しながらもいまは小休止している人も取り上げている。総勢二十一人、彼らは以前取材したフィリピンに住む日本人とはひと味もふた味も違った。

 高度経済成長後に渡米した日本人が、戦前の日系移民と明らかに異なるのは、渡米目的である。戦前の移民は家族を養うため、生活のために一攫千金を目指し太平洋を渡った。しかし、日本が経済大国となったいま、海外へ出ることは逆に経済的なリスクを高めてしまうことをも意味する。それでも渡米した彼らは、結果的に日本に留まっている以上の安定を手にした者も少なくないが、精神的な自己実現や知識の探求など金には代えられない「心の満足感」を追い求めたのである。

 インタビューでは、彼らの生き様はもちろんカリフォルニアで働くためのノウハウや州が抱える問題点など、同州をあらゆる角度から考察し原稿を書いた。逆に言えば、カリフォルニアが一体どのような土地なのかを的確に語ってくれる取材対象者を厳選した。本著の後半には「インフォメーション」として働くための具体的な情報を掲載しているが、インタビューはそのインフォメーションを補完する役割も果たしていると考えてほしい。

 インフォメーションは、「働く」ことに重点を置いたため生活のための情報としては詳細を端折った部分もある。しかし、必要だと思われることについてはどのノウハウ本よりも詳しく説明した。

 カリフォルニアで働くための情報は溢れている。情報の多さにうんざりさせられることもある。私自身、カリフォルニアで働く前には色々な本を買い込みインターネットを使って多くの情報を収集した。しかし、最も大切なのは優れた情報をどれだけ集めるかではなく、「カリフォルニアで働く」というモチベーションを、思い立ったその日から実行に移すまで維持し続けることである。そのためにはマニュアルを読み漁るのも良いが、先人たちの苦労を知りサクセスストーリーを聞いて、臨場感を味わいながら自分を奮い立たせることである。モチベーションが高ければ、溢れる情報をかき集め取捨選択することへの苦労などいとわなくなる。

先にも書いたが、海外で働きたいと考えたことがある人は決して少なくない。国際化が進展し雇用形態の多様化が加速している現代、海外で働くことを視野に入れる人たちが今後も増えるのは間違いない。あとは自分次第である。あなたの勇気ある決断を、われわれは手ぐすねを引いて待っている。

 

 最後に、サンフランシスコラジオ毎日の中川淳子社長、二川丈夫副社長の存在なくして本著の完成はあり得なかった。渡米間もないころの私にカリフォルニアのいろはを教えてくれ、多くの取材対象者を紹介してくれたのは彼らである。このお二人にまず御礼を申し上げるとともに、間接的、直接的にご協力をいただいた日米タイムズの岡田幹夫社長、記者の高木瑞穂さん、写真を提供してくれた古川裕也さん、そして、「インフォメーション」の原稿を丹念にチェックしてくださった各専門の方々、本著を書く機会を与えてくださっためこんの桑原晨社長、側面から非力な私を支えてくれた田村圭司師匠、妻ジェニファーに心から感謝したい。

 

二〇〇三年一二月

浅田光博