フィリピンに関わる日本人の第一人者と言っても過言ではない高濱一宏氏が、マニラ首都圏マカティ市で亡くなった。心臓麻痺とのこと。数日前までメーリーングリストで発言をされていたから、それがいかに急な事だったかが分かる。
高濱氏とは直接面識はないが、僕がフィリピンに移住する時、最終的な後押しをしてくれた一人である。「ジャーナリストとしての浅田さんの活動を今後も見守らせてください」と、氏のホームページ、フィリピンアカデミックネットに僕のコーナーを設けてくれたことが当時、とても励みになった。現在、氏の住んでいる同市のコンドミニアムを、当時仙台に住んでいた氏は、会ったことのない僕のためただ同然で貸してくれるとまで言ってくれた。
氏との出会いは、フィリピンに関わる日本人関係者が参加する最大のメーリングリスト「フィリピンメーリングリスト」である。当時、フィリピン移住について、まったくど素人な質問をする僕に対し、子をあやすよに接していただいたことは良い思いでである。すでに、4年余りが経過した。
産婦人科医という社会的に地位のある立場からの一見、上からものを言うような氏の発言は、関係者の間でも評価が分かれた。フィリピンに関わる日本人にとって、時として正論は必要ない。氏の物言いは、フィリピンに関わる「特殊」な人たちには疎んじられることが多かった。
関係者の間で氏がリードしてきたインターネット上でのやり取りの中でも、このところ目に見えて発言力が落ちてきたと感じていたのは僕だけではないだろう。
心臓麻痺という以外、亡くなられた詳細は聞いていない。だが、医療の分野以外にも日系企業の誘致などフィリピンの発展のため多岐にわたる活動の中で、かなりの心労があったと思われる。
今後、関係者の間でかなりの混乱が予想されるが、何はともあれ氏のこれまでのご尽力に改めて敬意を表するとともに、ご冥福をお祈りする。
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2004年10月16日(土) 高濱一宏氏急逝 |
カンボジアやタイを活動の拠点とするフリーカメラマンの後藤勝さんと会った。著書に『カンボジア〜僕の戦場日記〜』のある戦場カメラマンだ。話題の「自己責任」を聞いてみると不適な笑いを浮かべただけ。簡単には語れない、と言いたげだ。
後藤さんの活動がわかるホームページを紹介しておきます。近々、エイズで死んでいった子供たちを追ったドキュメンタリー写真集を出版の予定です。
MASA+YOUME+PRESS=MYP@REMINDERS
開催から4カ月を経て「『カリフォルニアで働く』出版記念パーティー」のページをアップしました。ご覧ください。
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2004年6月10日(木) 出版記念パーティー |
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2004年5月12日(水) 後藤勝さんに会いました |
ルポライターの戸田智弘さんと食事をしました。いまではマスコミにもよく取り上げられる「リタイア後を海外のリゾートで」とのライフスタイルを、世に問うた第一人者の一人である。氏の運営する「海外生活ネット」で、こうしたライフスタイルがどのような時代の流れを経て形成されたのか、また最近顕在化してきたいくつかの問題点を知ることができる。
「物価の安い海外で豪邸に住み、メイドとドライバーを付けゴルフ三昧の生活も、その後の目的意識がなければ長続きしない。物質的な豊かさだけではすぐに飽きてしまい、精神的な豊かさこそがリタイヤ後の海外生活を成功させるカギ。そのキーワードは『ボランティア』である」と氏は説く。
現在では、多数の著書の執筆や講演など多忙な戸田さんがまだ駆け出しだったころ、処女作の企画をある出版社に持ち込んだ。僕の著書を出版してくれためこんである。皮肉にもその企画には「ダメ」が出される。その後企画は修正され、双葉社から『老後をアジア・リゾートで暮らす』というタイトルで陽の目をみた。
この日は、そのめこんの桑原社長に編集者の戸塚さんを交え、そのときの思い出話に花が咲きました。
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2004年4月13日(火) 戸田智弘さんに会いました |
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2004年4月10日(土) 大変なご無沙汰でした |
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2004年4月9日(金) イラクで拉致された3邦人の渡航は安易でなかったか |
「やめとけって、ホームページに日記つけるとはまるよ」
とのありがたい忠告を無視して、日々の取材から得た
サブネタ(取材とは関係ないが捨てるには忍びない情報)
を書き綴っていきます。
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2003年11月21日(金) 入管の対応は悪いか |
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2004年2月10日(火) 本、完成! |
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2004年1月27日(火) 日米タイムズの取材を受けました |
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2003年12月30日(火) 入管の「はからい」 |
すっかり間があいてしまったが、入管の職員と申請者の態度、対応について書いたからには、わが家のケースがどのような結末を迎えたのかをきちんと記しておくのが筋だろう。
結論として家内の在留資格は、前回の更新からほとんどの期間、つまり3年に及ぶ海外生活があるにもかかわらず前回と同じく「3年」が許可された。また、申請から許可まで、通常は少なくとも1ヵ月を要するといわれる審査で、1週間後に審査が終わるという異例の高速発給となった。
いったん米国に戻り、許可が出た後に再びスタンプをもらいに日本へ入国することを想定していたが、いや、最悪、在留資格が更新できない場合に備えた準備もしていたが、入管の「はからい」で2週間の妻の日本滞在の間にすべて事が終わった。これ以上ないほどの理想的な結果である。
海外に居を構え、明らかに日本に生活の拠点がなく身元保証人にすらなれないと言われた私の妻の在留資格がこうもあっさりと更新できたわけは単純である。審査官に私たち家族の状況をより分かりやすく説明し得る書類を作り提出したこと、それと「どうしても在留許可を更新したい」ことを同じく書面にて訴えたからである。これには、今回の申請を代行してくれた行政書士の力によるところが大きい。
「入管職員も人間」、そして「雇用形態の多様化」が今回のキーワードだった。「役人だから」「役所だから」と言っていては、このような結果にはいたらなかったことは火を見るより明らかである。役人だからこそ、対応に気をつけなければならないのである。
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2004年1月14日(水) 今年の課題 |
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2004年1月7日(水) 入管の対応 |
はじめまして、浅田光博です。
先日よりホームページを開設しました。本来なら、中身がある程度完成してから公開するのでしょうが、自分の作ったホームページを自分で見るのが待ち切れなくて公開をはじめてしまいました(笑)。
おそらく現在、関係者以外がこのホームページに辿りつくことはあり得ないと思います。けれども、何かの弾みでこのホームページを開いてしまった幸運な人のために、少しぐらいはくつろいでもらおうとこの「取材日記」だけ見切りでスタートします。今日現在のレイアウトはめちゃくちゃ、内容も飯田君や大森君の頭ぐらい、場合によってはシリコンバレーの桝本さんぐらい薄いかもしれない(分からんて)。
ホームページ作りはしんどいっすよ。かつての僕の同僚が知ったら、こんなものを作っていることに腰を抜かす奴もいるだろうね。そのぐらい、僕にとって労力のいる作業です。プロに頼めばいいじゃないかって? いくらぐらいするんだろう。そんな金があったら、日本食レストランでうまいもん食ってるよ(現在、私は米国在住)。
というわけで、この取材日記では日々の取材活動の報告をします。と言っても、毎日取材をしているわけではないので、それ以外のことでお知らせする価値のあることは何でも書きます(多分、その方が多い)。今後の書き込みにご期待ください。
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2003年11月12日(水) いつできる、このホームページ(1) |
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2004年1月6日(火) ラジオ出演決定 |
来週の月曜日、12日に地元サンフランシスコの日本語ラジオ局、サンフランシスコラジオ毎日(AM1450)のインタビューを受けることになった。ラジオ出演は、大阪のラジオ局でフィリピン人妻を持つ日本人としての愛憎話を披露して以来、3年ぶり2回目。ジャーナリストとしての出演は今回が初めてだ。
今度出版になる『カリフォルニアで働く』に関することが主だった内容になるらしいが、どうしよう。聞き手は、当地で有名なジャーナリストの中川淳子さん。気心の知れた人だけに、逆に改まって話をするのは緊張する。
放送日はまだ未定だが、決まったらお知らせします。ご期待ください。
ホームページを作り始めたのはこの程、大きな取材が終わりその原稿が書き上がったからだ。カリフォルニア在住の働く日本人を取り上げ一冊の本にまとめる企画で、「カリフォルニアで働く」というタイトルでアジアの書籍を中心に出版している「めこん」という出版社から発刊される。
詳しくは、別のページであらためて紹介しようと思うが、この取材を通じて私が最も顕著に感じたのは、「働く場所は、何も日本に限定されたものではない」ということだ。海外で働くことが、何ら特別なことでないことをインタビューに答えてくれた21人の日本人が教えてくれる。
4月から取材をはじめ、ルーティンワークに加え週1本のペースで原稿を書いていった。書き上げるまでの数カ月間は、本1冊まるごと書くことが初体験の私にはとてもしんどかったが、それでも何とか楽しみながら書けたのは、純粋にインタビューした人たちが面白い人だったからだ。
著書の「まえがき」にも書いたが、この本をぜひ「この人たちはアメリカで成功したが日本でも成功しただろうか」という視点で読んでほしい。そのあたりに、この本のポイントというか主旨が読み取れると思う。
結論を言えば、日本でダメでも海外で成功する可能性はいくらでもある。その手のマニュアルを読むと「海外は甘くない。日本で実現できない夢を海外で果たそうなんていう考えは通用しない」などと書いてある。しかし、私の考えは逆だ。例えば、本著には性同一性障害を持つ男性が登場するが、彼が活躍する場が日本でどれだけあるというのか。米国では、マイノリティー(少数派)の人権が常に守られている。いや、これは言い過ぎ。守ろうとする動きが日本と比較にならないほど強い。
例が極端過ぎると言わないでほしい。個人が抱える事情は千差万別である。中には、消極的な理由で海外に出て行くことも大いにあっていいと私は思う。
「何だか読みたくなってきた」という人は、来年1月ごろ書店に出回ると思うので楽しみにしておいてください。海外で働くことを考えていない人も、ちょっと読んでみてください。
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2003年11月13日(木) いつできる、このホームページ(2) |
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2003年11月14日(金) 「英語がしゃべれる」 |
海外とのかかわりを持つと本当に良く聞くのが「英語しゃべれるの?」という言葉だ。私も、留学経験もなく、社会人になっていきなり海外へ飛び出したから、日本に住む知人から「お前、英語しゃべれるの?」と良く聞かれる。
私は自身の体験から、この「英語がしゃべれる」という言葉に全く意味がないことを一貫して唱えてきた。なぜなら、中学程度の英語を解さない人は別として、われわれ日本人はみな、英語がしゃべれるからだ。
それは、海外で外国人と、ありったけの知識をふりしぼって英語で会話してみると分かる。難しいことはさておき、外国人と意志の疎通を図ることはわれわれの受けてきた義務教育で十分にできる。
「英語が話せない」と思っている人の多くは、外国人と話した経験がない。また、海外でも、自分が英語を話せないと思い込んでいることで、外国人との接触を極力持たずに生きている人もたくさんいる。大都市には大きな日系コミュニティーがあるため、日本語だけで生活することもできなくはない。
こんな日本人を作ってしまった原因は、間違いなく日本の英語教育にある。カッコに前置詞を入れさせるなど重箱の隅をつつくような試験問題は、すっかり英語に対して間違えることにビビッてしまう人間を作り出してしまった。
日本人が特殊なことは、世界各国からの移民が集まっている米国にいるとよく分かる。英語を母国語としない人たちと会話すると、彼らの文法がめちゃくちゃであり、にもかかわらずそれがコミュニケーションを取る上での大きな障害にならないことを実感する。彼らは、決して英語に対する度胸が据わっているわけではない。母国でろくな英語教育を受けていないだけで、彼らにとって、日本の英語教育すらありがたいものなのは何とも皮肉な話である。
日本人にとって、まず英語に対する恐怖心、下手な英語を話す羞恥心を取り払うことが英語を話す第一段階である。あとは、ひたすら会話の量を増やしていくことだ。
とは言っても、語彙が限られている上に相手の言っていることが分からなければ会話は長続きしない。英語を「それなりに」話すためには、話す能力とは別に聞く能力が必要になってくる。
英語には、日本語にない「R」や「TH」の発音があるため、慣れるまでネイティブのしゃべる英語はとても聞き取り難い。「ネイティブの」と書いたのは、例えば同じ日本人がしゃべる英語が日本人にとても聞きやすいのは、日本人はよほどネイティブに近いレベルになるまで「R」と「L」を区別なく使っていて、「TH」は「ズ」または「ス」としか発音できないからだ。中国人も同様。
「R」と「TH」については、私もあいかわらず苦しんでいる。端的な例を挙げれば「light」と「right」の区別がはっきりとできない。車で「Turn
right.」(右にまがって)と言ったはずが、「Turn (on the) light.」(ライトをつけて)と聞かれても仕方がない。「third」という単語には「R」と「TH」がミックスされているのでできるだけ使いたくないのだが、どうしても必要な時は「TH」で舌を噛み、「R」でベロ巻いて「たあーーどぅ」とネイティブに教えられた通りに仕方なく発音している。
「Thursday」も嫌いな単語だ。この単語も、「TH」を「サ」としか発音できない宿命からよく「Saturday」と聞き間違えられる。何度も言うのは嫌なので、聞き返されたときは「The
day after Wednesday」(水曜日の次の日!)と「R」も「TH」も使わず逃げる。
そんなことに苦労しながら、少しずつ慣れてくると外国人と話をすることが楽しくなってくるものだ。知らない国の知らない話を聞くことこそ、外国人と話す醍醐味だ。そんな中で、覚えておくと良いフレーズをいくつか紹介しよう。これだけを叩き込んでおくだけで、相手の言っていることを理解することができる。
What do you mean? (どういう意味?)
How do you spell it? (どういうスペルなの?)
Say that again. (もう一回言って。「セイ・ザット・アゲイン」でなく、「セイザラゲン」とかっこ良く言う)
Can you speak more slowly, please? (もうちょっとゆっくりしゃべってちょうだい。)
どうだろう。何となくいける気がしてこないだろうか。
さらに言いたいことが出てくると、今度は中2ぐらいで習った「関係代名詞」を使いこなすことが課題になってくる。この辺のレベルが、一般に「日常会話が難なく話せるレベル」になるのだろうか(別に関係代名詞を使わなくても日常会話ぐらいできるが、スマートに話すという意味で紹介する)。例えば、こんな風に使う。
I’m looking for a friend who can drink some alcohol with me.
(一緒に酒を飲んでくれる友達を探してるんだけど。)
The sushi which is on the table is mine.
(テーブルにある寿司は俺のだよ。)
英語の環境に出て3年の私はこんな程度である。何はともあれ話すこと、聞くこと。そして、大切なのはずっと続けることだ。英語については、これからもいろいろと書き込んでいきたいと思う。
17日から日本に一時帰国しているフィリピン人の妻が、日本の在留資格更新のため入国管理局を訪れた。付き添いなどで同局に行ったことのある人は分かると思うが、日本の役所の外国人への応対はすこぶる悪い。入管は、その最たるものと言われている。が、それは本当なのか。
今回は直接、私が申請に同行できなかったが、手続きを代行してくれた行政書士のM氏が、審査官や他の申請者の様子などを電話で詳細にリポートしてくれた。
窓口では相変わらず、煮え切らない職員の対応に痺れを切らす申請者(の同行者の日本人)が何人も見られたという。同行者らに言わせると、「どうしてこっちの言うことが分からないのだ」「本当に役所的な対応しかできない」「自分の都合しか考えていない」などなど。そして、「役人は外国人を蔑視している」と締めくくられる。全くお約束の言い分である。
日本の役所の対応の悪さを言うには、米国でわれわれが役所に行ったときの対応と比較するのが容易だ。確かに、外国人であるわれわれが役所で腹の立つ対応をされたことはない。それ以前に、どこに行っても接客要員が無愛想なので、役所が取り立ててどうだと言えなくなってくる。
M氏は、同行者に伴われた申請者の書類をそっとのぞき込んだ。すると、日本語で書かなければならない場所がアルファベットで書かれ(代筆、タイプ打ち可能な個所)、不足書類もちらほら。とても、「言い分」を言えるような状態ではなかったという。
「こんなもんですよ、入管でのやり取りは。そして、こんな人たちが、『役人の対応は・・』と言っている張本人なんです」。M氏の嘆きが、太平洋を越え手に取るように伝わってきた。